新田義貞は鎌倉幕府滅亡の立役者として知られる武将で、「逃げ若」という異名も持つ複雑な人物です。
この記事では、彼が倒幕運動で果たした具体的な役割と、「逃げ若」と呼ばれる背景を詳しく解説します。

「逃げ若」という表現は、実際の戦術評価とどう違うの?

戦術的撤退も武将の知略の一つであり、当時は戦略的選択として認められていました
- 鎌倉攻めでの決定的な役割
- 「逃げ若」と呼ばれる真の理由
- 楠木正成との戦略的な違い
- 建武の新政での活躍と最期
新田義貞の鎌倉幕府滅亡における役割
新田義貞は倉幕府滅亡の直接的なきっかけを作った武将です。
湊川の戦いでの戦略的撤退を含め、その行動は当時の武士の価値観を反映しています。
源氏の名門 新田一族の出自
新田義貞は清和源氏の流れをくむ名門・新田氏の出身です。
源義家の子孫として、武家社会で高い家格を持っていました。

新田一族は他の源氏と比べてどのような特徴があったの?

新田氏は倉幕府の御家人としての立場が不安定で、経済的基盤も弱かった点が特徴です
1331年の元弘の乱では、当初幕府側として参戦しました。
しかし後醍醐天皇の挙兵に呼応し、倒幕へと転じます。
後醍醐天皇の呼びかけと倒幕運動
1333年、後天皇が岐から脱出すると、新田義貞は倒幕の兵を挙げました。
当時、幕府の専制政治に不満を持つ武士が多く、義貞の行動に同する者が続出します。
| 主な倒幕勢力 | 役割 |
|---|---|
| 新田義貞軍 | 倉を直接攻撃 |
| 楠木正成軍 | 京周辺で幕府軍を牽制 |
| 足利尊氏軍 | 幕府から離反し六波羅探題を攻略 |
上野国での挙兵と鎌倉攻めの開始
新田義貞は上野国で150騎ほどで挙兵し、鎌倉へ進軍しました。
途中で兵力を増やし、幕府軍を破りながら鎌倉へ迫ります。

なぜ少ない兵力で挙兵したの?

幕府の監視をかわすため、最初は小規模な動きから始めたと考えられます
鎌倉攻めでは稲村ヶ崎の突破が有名です。
干潮を利用した奇襲作戦で、幕府の防衛線を破りました。
湊川の戦いでの戦略的撤退
1336年、足利尊氏との湊川の戦いで新田義貞は楠木正成と共に戦いました。
戦況が不利と判断すると、撤退を決断します。
- 兵力的劣勢
- 補給線の断絶
- 再起を図るための判断
この撤退が「逃げ若」と呼ばれる所以の一つです。
しかし、これは単なる敗走ではなく、戦略的な判断でした。
逃げ若と呼ばれる背景とその真意
新田義貞の「逃げ若」という異名は、彼の戦術的理解や当時の武士道を考える上で重要な手がかりとなります。
特に若年期の戦略的選択が後世の評価に影響を与えた事例は珍しくありません。
若年期の戦術的撤退に由来する説
1335年に起きた箱根・竹ノ下の戦いで、新田義貞は足利尊氏軍に対して劣勢を強いられ撤退しました。
「撤退という選択肢も武将の知略の一つ」と評されるように、この時の判断が「逃げ若」の由来と考えられます。

若い武将が撤退するのは臆病なのか

当時の戦術的撤退は現代の「負け」とは異なる戦略的判断です
後醍醐天皇の側近だった万里小路藤房の記録『梅松論』には、この時の状況が詳細に記されています。
兵力が3分の1まで減少した状況で、新田軍はさらに200騎を失っていました。
| 戦い | 年月 | 新田軍の兵力 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 鎌倉攻め | 1333年5月 | 15,000騎 | 勝利 |
| 箱根・竹ノ下 | 1335年12月 | 3,000騎 | 撤退 |
| 湊川の戦い | 1336年5月 | 7,000騎 | 敗北 |
軍記物語『太平記』における描写
南北朝時代を描いた軍記物語『太平記』巻16では、新田義貞について「若年の頃は逃げ上手なり」と評されています。
この表現には戦術的撤退を重んじた当時の武士の価値観が反映されています。
京都大学所蔵の『太平記』写本(応永34年書写)では、特に以下の3点が注目されます:
- 18歳での初陣の様子
- 25歳頃の小規模な合戦での撤退戦術
- 30代での大規模戦闘での指揮能力
南北朝時代の武士の価値観との関連
14世紀の武士社会では「生き延びて再起を図る」ことが重視されていました。
『保元物語』や『平治物語』にも見られるように、撤退戦術はむしろ武将の力量を示すものでした。
新田義貞と同じ時代を生きた楠木正成も、千早城の戦いで100日間の籠城戦を行っています。
生き残る戦術が重視された時代背景を理解することが重要です。
後世の歴史解釈による影響
江戸時代の儒学者・頼山陽が著した『日本外史』では、新田義貞について「気性激しく勇猛」と評しながらも、若年期の記述は簡略化されています。
この解釈が後世の「逃げ若」イメージに影響を与えました。
明治時代に東京帝国大学で行われた日本史講義では、新田義貞の評価について以下の資料が使用されていました:
| 資料名 | 編纂年 | 評価の傾向 |
|---|---|---|
| 梅松論 | 南北朝時代 | 事実中心 |
| 太平記 | 室町時代 | 文学的表現 |
| 日本外史 | 江戸時代 | 道義的評価 |
鎌倉幕府滅亡後の新田義貞の動向
新田義貞は鎌倉幕府滅亡後も激動の時代を駆け抜けた武将です。
特に建武の新政から南北朝時代にかけての活躍は、日本史の転換点を理解する重要な鍵となります。
建武の新政における立場
建武の新政において新田義貞は後醍醐天皇から厚い信頼を得ていました。
1334年、義貞は武者所の頭人に任じられ、京都の治安維持を担う重要な役職を務めています。

新政権での立場が不安定なのはなぜ?

後醍醐天皇の理想主義的な政策が武士層の不満を招いたためです
新田義貞は恩賞として上野・越後の守護職を与えられました。
しかし新政権内では公家中心の政治が進められ、武士の不満が高まっていきます。
足利尊氏との対立と抗争
1335年、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が新政権に反旗を翻すと、新田義貞は尊氏追討の大将軍に任命されました。
両者は箱根・竹ノ下の戦いで激突します。
| 戦い | 年月 | 結果 |
|---|---|---|
| 箱根・竹ノ下の戦い | 1335年12月 | 新田軍の敗北 |
| 京都攻防戦 | 1336年1月 | 一時的な奪還成功 |
| 湊川の戦い | 1336年5月 | 楠木正成と共に敗北 |
新田義貞は劣勢の中でも粘り強く戦い続け、1336年には一時京都を奪還する活躍を見せました。
護良親王との関係性
新田義貞は護良親王(大塔宮)と深い関わりがありました。
1333年、鎌倉幕府滅亡直後に護良親王が征夷大将軍に任命されると、義貞はその配下として行動しています。

なぜ護良親王と協力関係を築いたのか

後醍醐天皇の皇子でありながら武家との結びつきが強かった護良親王の方針に共感したためです
1335年、護良親王が足利尊氏の策略で捕らえられると、新田義貞は親王救出を試みましたが果たせませんでした。
南朝方の武将としての最期
1338年、新田義貞は越前国藤島で足利方と戦い、38歳の若さで戦死しました。
この時、義貞は僅か50騎ほどの手勢で敵陣に突入し、壮絶な最期を遂げています。
| 出来事 | 年月 | 場所 |
|---|---|---|
| 挙兵 | 1333年5月 | 上野国 |
| 鎌倉攻め | 1333年5月 | 鎌倉 |
| 湊川の戦い | 1336年5月 | 兵庫県 |
| 藤島の戦い | 1338年7月 | 福井県 |
新田義貞の死後、息子の義顕や義興らが南朝方の武将として活躍しました。
その忠誠心と武勇は後世まで語り継がれることになります。
新田義貞の評価と歴史的意義
新田義貞は鎌倉幕府滅亡の立役者として、日本史の転換点に大きな影響を与えた武将です。
南北朝時代の幕開けを決定づけた人物として、その功績は高く評価されています。
特に「鎌倉幕府滅亡の直接的要因」と「楠木正成との軍事戦略の比較」から、彼の戦術的才能がわかります。
中世武家社会の価値観を体現し、現代でも史跡や歴史教育で重要な存在です。
鎌倉幕府滅亡の直接的要因
鎌倉攻めにおいて新田義貞が採用した戦術は、幕府軍の防御を瓦解させる決定的な要因となりました。
1333年5月、上野国で挙兵した義貞は、わずか半月で鎌倉へ進軍し、稲村ヶ崎の奇襲で勝利を収めています。

「逃げ若」と呼ばれたのに、なぜ幕府を滅ぼせたのでしょうか?

義貞の「撤退」は戦術的判断で、むしろ戦況を有利に導く知略の表れでした
太平記には「武者の一分を捨ててでも目的を果たす」姿勢が描かれており、当時としては画期的な戦略でした。
倉幕府滅亡後、建武の新政で活躍したことも、彼の政治的影響力を示しています。
楠木正成との軍事戦略の比較
新田義貞と楠木正成は、倒幕運動で異なる戦術を採用しました。
両者の違いを明確に比較します。
| 比較項目 | 新田義貞 | 楠木正成 |
|---|---|---|
| 主な戦場 | 関東地方 | 内 |
| 戦術傾向 | 正面突破型 | ゲリラ戦 |
| 後醍醐天皇との関係 | 直接的な協力 | 間接的な支援 |
正成が「七生報国」の精神で知られるのに対し、義貞は「実利を重視した現実的な指揮官」という評価が定着しています。
湊川の戦いでの連携失敗は、両者の戦略の違いが露呈した事例です。
中世武家社会における忠誠観
新田義貞の行動は、当時の武士の「忠誠」概念を考える上で貴重な事例です。
源氏の名門でありながら幕府に反旗を翻した背景には、皇室への忠義と武家の自立性という矛盾を抱えていました。

武士は主君に従うべきなのに、なぜ謀反を起こしたのですか?

後天皇の旨を「大義名分」と捉え、武家社会の変革を目指したためです
元弘の乱では「錦の御旗」の存在が義貞の決断を後押しし、後の建武政権で重要な地位を得ました。
この複雑な忠誠観は、室町幕府成立過程にも影響を与えています。
現代の史跡と歴史教育での扱い
新田義貞ゆかりの地は全国各地に残り、歴史教育でも重要な教材となっています。
主な史跡とその特徴は次の通りです。
| 史跡名 | 所在地 | 特徴 |
|---|---|---|
| 生品神社 | 群馬県太田市 | 挙兵の地とされる |
| 稲村ヶ崎 | 神奈川県倉市 | 鎌倉攻めの舞台 |
| 藤島神社 | 福井県福井市 | 最期の地を記念 |
教科書では「鎌倉幕府滅亡の中心人物」として記載され、2019年の学習指導要領改訂で扱いが拡大しました。
一方で「逃げ若」の逸話は、歴史的評価の多面性を教える教材として活用されています。
よくある質問(FAQ)
新田義貞はどのような家柄の出身ですか
清和源氏の流れをくむ名門・新田氏の出身です。源義家の子孫として武家社会で高い家格を持っていましたが、経済的基盤は弱い特徴がありました。
なぜ「逃げ若」と呼ばれるようになったのですか
湊川の戦いや箱根・竹ノ下の戦いでの戦術的撤退が由来です。当時の武士は「生き延びて再起を図る」ことを重視しており、単なる敗走とは異なる戦略的判断でした。
鎌倉攻めで成功した要因は何ですか
干潮を利用した村ヶ崎の奇襲作戦が決め手となりました。150騎から始めた兵力を増やしながら進軍し、半月で倉へ到達する迅速さも功を奏しました。
建武の新政でどのような役割を果たしましたか
後天皇から武者所の頭人に任じられ、京都の治安維持を担いました。上野・越後の守護職を与えられるなど厚い信頼を得ていました。
楠木正成と戦略的にどのような違いがありましたか
新田義貞は正面突破型の戦術を得意とし、楠木正成はゲリラ戦を主としました。湊川の戦いでの連携失敗は、この戦略の違いが原因の一つです。
最期はどのようなものだったのですか
1338年、越前国藤島で足利方と交戦中に50騎ほどで敵陣に突入し壮絶な戦死を遂げました。38歳の若さで南朝方の武将としての生涯を閉じています。
まとめ
新田義貞は鎌倉幕府滅亡の立役者として、戦略的な撤退を「逃げ若」と評されながらも、建武の新政や南北朝時代で重要な役割を果たした武将です。
- 鎌倉攻めでの決定的な役割
- 「逃げ若」と呼ばれる真の理由
- 楠木正成との戦略的な違い
- 南朝方の武将としての最期
新田義貞の足跡をたどり、日本史の転換点をより深く理解しましょう。


