退職金にかかる税金の仕組みは、長年同じ会社に勤め上げることを前提に設計されている。だが、その「前提」から構造的に排除された世代がいる。就職氷河期世代だ。彼らは新卒時に正社員の椅子を奪われ、非正規雇用を渡り歩き、転職を繰り返すことを余儀なくされた。そして今、退職金を受け取る年齢に差しかかろうとしている。
この記事では、退職金税制が氷河期世代にとってなぜ構造的に不利なのか、2026年1月施行の制度改正が何を意味するのか、そして個人投資家として30年以上市場を見てきた立場から、この世代が取るべき現実的な行動を冷静に分析する。
退職金税制は「終身雇用者のための制度」である

退職金にかかる所得税は、「退職所得控除」という仕組みで大幅に軽減される。勤続20年までは1年あたり40万円、20年を超えると1年あたり70万円が控除される。つまり勤続30年なら1,500万円まで非課税で、さらにそれを超えた部分も2分の1課税という優遇を受ける。
退職所得控除の計算構造
| 勤続年数 | 控除額 | 想定される働き方 |
|---|---|---|
| 10年 | 400万円 | 転職2〜3回の氷河期世代 |
| 20年 | 800万円 | 中途入社で定年まで勤務 |
| 30年 | 1,500万円 | 新卒入社→定年(終身雇用モデル) |
| 38年 | 2,060万円 | 大卒22歳→60歳定年(理想型) |
この制度設計の前提は明白だ。「一つの会社で長く働いた人ほど報われる」。逆に言えば、転職を繰り返した人間、あるいはそもそも正社員になれなかった人間には、この優遇はほとんど届かない。
政府税制調査会も、この制度が「労働市場の流動性を妨げている」と認識している。にもかかわらず、退職所得控除の本体——勤続20年超で70万円/年に跳ね上がる仕組み——の見直しは、2024年度・2025年度・2026年度と3年連続で先送りされている(要出典確認)。「サラリーマン増税」という批判を政治的に処理できないからだ。
氷河期世代は「前提」の外側に立たされた世代

就職氷河期とは、おおむね1993年〜2004年に学校卒業期を迎えた世代を指す。2026年現在、大卒で概ね44〜55歳。まさに退職金の受取時期が視野に入り始める年齢帯だ。
氷河期世代を取り巻いた構造的条件
・大卒就職率の過去最低は2003年の55.1%。2000年には大卒者の22.5%が学卒無業者だった(要出典確認)
・有効求人倍率は1993年〜2005年まで1.0を下回り続けた
・バブル崩壊後の企業は、雇用調整として非正規雇用を拡大。派遣法改正も追い風となった
・新卒一括採用と年功序列に偏重した日本の労働市場では、既卒者の正社員化は極めて困難
・2019年時点で氷河期中心層(36〜45歳)のうち、不本意非正規が約50万人、無業者が約40万人と試算(内閣官房)
ここで冷静に構造を整理しよう。退職金税制は「勤続年数が長いほど有利」に設計されている。しかし氷河期世代の多くは、正社員の椅子を新卒時に得られず、転職を重ね、勤続年数が分断された。仮に40歳で正社員になれたとしても、60歳定年までの勤続は20年。控除額は800万円に留まる。
一方、バブル期に新卒入社し同じ会社に勤め続けた世代は、勤続35年以上で2,000万円近い控除を享受する。同じ退職金額を受け取っても、手取りに数十万円から百万円単位の差が生じる。これは個人の努力の問題ではない。生まれた時期と、その時期の経済環境によって構造的に決まる格差だ。
2026年1月の改正——「5年ルール→10年ルール」は何を変えたか

退職所得控除の本体は温存されたまま、2026年1月に施行されたのは「重複排除期間」の延長だ。これまで、iDeCoなどの確定拠出年金(DC)を一時金で受け取り、5年以上空けてから退職金を受け取れば、それぞれで退職所得控除を満額適用できた。いわゆる「5年ルール」だ。
これが「10年ルール」に変更された。つまり、60歳でiDeCoの一時金を受け取った場合、退職金で控除を満額使うためには71歳以降まで待たなければならない。
5年ルール→10年ルールの影響
| 受取パターン | 旧ルール | 新ルール(2026年〜) |
|---|---|---|
| 60歳DC一時金→65歳退職金 | 控除満額OK | 控除減額 |
| 60歳DC一時金→70歳退職金 | 控除満額OK | 控除減額 |
| 60歳DC一時金→71歳退職金 | 控除満額OK | 控除満額OK |
※先に退職金を受け取り、後からDC一時金を受け取る場合は「前年以前19年以内」のルールが適用され、改正による変更なし
この改正のポイントは、「控除の二重取り」を防ぐという建前だが、実態としてはiDeCoで自力の老後資金形成を進めてきた層に対する増税にほかならない。そして氷河期世代こそ、企業の退職金制度が薄い(または存在しない)ために、iDeCoに頼らざるを得なかった世代なのだ。
「本丸」の見直しが3年連続先送りされる政治的構造
退職金税制で本当に問題なのは、勤続20年超で控除額が40万円/年から70万円/年に跳ね上がる「長期勤続優遇」の仕組みそのものだ。政府税調は2023年に見直しを提言し、石破首相も「慎重かつ適切な見直しをすべき」と国会で答弁した。
しかし現実はどうか。2024年度は岸田政権が「サラリーマン増税」批判で断念。2025年度は選挙を意識して見送り。2026年度は国民民主党の「手取り増加最優先」路線の影響で再び先送り。3年連続の不作為だ。
構造を整理する
退職金税制の「長期勤続優遇」は、終身雇用が標準だった時代の産物だ。この制度が維持される限り、転職を繰り返さざるを得なかった氷河期世代は構造的に不利であり続ける。しかし見直しには「現在の長期勤続者」からの反発が伴う。政治的には票田を失うリスクがある。結果として、制度の恩恵を最も受けられない世代のために制度を変える政治的インセンティブは、誰にもない。
これは、投資の世界でよく見る構造と同じだ。制度を設計する側と、制度の恩恵を受ける側は同じ利害関係にあり、不利益を被る側には発言力がない。新NISAの設計でもGPIFの運用でも、個人投資家が構造的に不利な立場に置かれるのと同じメカニズムが、税制にも存在している。
【独自考察】30年市場を見てきた投資家として、氷河期世代に伝えたいこと
私自身、バブル崩壊後に本格的に投資を始め、30年以上にわたって市場の裏側を見てきた。その経験から言えることがある。
制度に期待するな。制度は変わらない。変わるとしても、あなたの退職までには間に合わない。
退職金税制の見直しは、仮に実現しても経過措置が設けられ、段階的に進むだろう。今40代後半〜50代の氷河期世代が60歳で退職金を受け取る頃に、制度が劇的に改善されている可能性は低い。
だからこそ、制度の隙間を使い倒すしかない。以下は、氷河期世代が「今から」できる現実的な対応だ。
氷河期世代の退職金戦略——3つの現実解
① iDeCoの受取時期を「逆算」で設計する
10年ルールの施行により、DC一時金と退職金の受取間隔が最重要変数になった。退職金の支給時期が先に決まっているなら、iDeCoの一時金受取をそこから10年以上前に設定するか、逆にiDeCoは年金受取(分割)に切り替えることで控除の減額を回避できる。受取方法の選択一つで、手取りが数十万円変わる。
② 退職金が「ない」なら、退職所得控除を別の形で使う
非正規雇用が長く退職金がほぼゼロという場合、退職所得控除はiDeCoの一時金受取に丸ごと使える。勤続年数ではなくiDeCoの加入年数で控除額が計算されるため、今からでもiDeCoに加入して控除枠を積み上げることが可能だ。この「逆転の発想」は意外と知られていない。
③ 新NISAの非課税枠を「退職金の代替」と位置づける
退職金税制の優遇が使えないなら、そもそも課税されない資産形成手段に集中する。新NISAの生涯非課税枠1,800万円は、退職所得控除に代わる「自分だけの控除枠」だ。退職金がない分、NISAに資金を集中させるという発想の転換が必要になる。
繰り返すが、これは自己責任の話ではない。終身雇用を前提とした税制が、終身雇用から排除された世代に不利に働いている——それは制度設計の問題だ。しかし制度が変わるのを待つ余裕は、もうこの世代にはない。自分の手で、制度の隙間から最大限の手取りを確保する。それが、30年間市場で生き残ってきた人間の結論だ。
