小説 兜町の裏切り者  第1章:光と影の兜町

雑記

第1章:光と影の兜町

東京・兜町、2024年10月。秋の陽光がガラス張りのビルに反射し、金融の聖地はまるで水晶の要塞のように輝いていた。東京証券取引所(東証)の本社ビルは、その中心に君臨する。鉄とガラスでできた冷たく荘厳な外観は、市場の秩序と信頼の象徴だ。ビルの前では、スーツ姿のトレーダーたちが忙しなく行き交い、スマートフォンの画面に映る株価チャートを睨みつけている。兜町は、欲望と理性が交錯する場所。富を夢見る者も、破滅の淵に立つ者も、ここでは等しく市場の波に翻弄される。

そのビルの7階、システム管理部門のオフィスで、佐藤悠斗は静かにキーボードを叩いていた。25歳、大学で情報工学を専攻し、3年前に東証に新卒入社した若手社員だ。黒縁のメガネの奥で、鋭い目がモニターを睨む。デスクには、技術書とエナジードリンクの空き缶が乱雑に並び、彼の几帳面さと過労が同居していることを示していた。悠斗は、同期の中でも特に優秀だと評されていた。入社1年目で市場監視システムのバグを単独で修正し、上司の信頼を勝ち取ったこともある。だが、その胸の奥には、誰にも言えない焦りが燻っていた。

「このまま、ただのサラリーマンで終わるのか?」 悠斗は時折、夜のオフィスで独りごちた。大学時代の友人たちは、ベンチャー企業で起業したり、外資系金融機関で高給を手にしたりしている。SNSには、彼らの華やかな生活が溢れていた。六本木の高級バーでシャンパンを傾ける写真、海外旅行でのリゾート地の自撮り、そして「億り人」を自称する投資家の投稿。悠斗の年収は500万円。悪くはないが、兜町のきらびやかな世界に身を置く者としては、どこか物足りなかった。

彼の父親、健一は60歳。元々は地方銀行の支店長を務めていたが、定年退職後、株取引にのめり込んでいた。悠斗が小学生の頃、健一は休日に株価チャートを広げ、「これが未来を決めるんだ」と語っていた。だが、健一の投資は成功ばかりではなかった。リーマンショックの頃、家族の貯金を大きく減らし、妻の不満を買いながらも、株への情熱を捨てられなかった。悠斗はそんな父をどこか軽蔑していた。「運と情報がないのに、なぜ勝てると思うんだ?」 それでも、健一は息子の東証入社を誇りに思い、ことあるごとに「何かいい銘柄の話はないか」と冗談めかして尋ねてきた。

悠斗の職場は、市場の「裏側」を支える場所だった。東証のシステム部門は、取引の円滑な運営を保証し、不正取引を監視する要だ。オフィスには、巨大なモニターが並び、株価の動きや異常取引をリアルタイムで監視するプログラムが稼働している。悠斗の主な仕事は、システムのメンテナンスとデータ管理。時には、証券取引等監視委員会(SESC)からの要請で、特定の口座の取引履歴を抽出することもある。

そこには、市場の光と影が映し出されていた。巨額の利益を上げるヘッジファンド、インサイダー取引の疑いで追われる個人投資家、破産寸前のトレーダー。悠斗は、市場が公平であると同時に、情報を持つ者が圧倒的に有利な世界だと知っていた。

10月のある夜、残業でオフィスに残っていた悠斗は、いつもと異なるファイルを目にした。パスワードで保護されたフォルダに、「星川工業株式会社_機密」と記された文書があった。好奇心に駆られ、悠斗は管理者権限を使ってファイルを開いた。そこには、衝撃的な情報が記されていた。星川工業が、大手製造メーカーによる株式公開買い付け(TOB)の対象となる予定で、公開は11月中旬を予定しているという。買付価格は現在の株価の1.8倍。発表後、株価は確実に急騰するだろう。

悠斗の心臓がドクンと脈打った。頭の中で、数字が踊り始めた。「仮に1000万円分の株を買えば、発表後には1800万円…いや、手数料を引いても1500万円は堅い。」 彼は慌ててファイルを閉じ、モニターから目を逸らした。だが、脳裏にはその情報が焼き付いていた。東証の社員として、インサイダー取引が違法であることは骨の髄まで叩き込まれている。金融商品取引法166条、未公開の重要事実に基づく取引は、懲役5年以下、罰金500万円以下の重罪だ。悠斗は深呼吸し、自分に言い聞かせた。「落ち着け。こんなリスク、取るわけないだろ。」

しかし、その夜、帰宅したアパートで、悠斗は眠れなかった。ワンルームの狭い部屋で、冷蔵庫の唸り音がやけに大きく響く。スマホを開くと、大学時代の友人からのメッセージが目に入った。「悠斗、最近どう? 俺、仮想通貨で5000万儲けたぜ!」 スクロールすると、別の友人が高級車の写真をアップしている。「やっと夢のポルシェget!」 悠斗はスマホを放り投げ、天井を見つめた。「なんで俺だけ、こんなちっぽけな人生なんだ…」

翌朝、いつものようにスーツに身を包み、東証のオフィスに向かう。エレベーターの中で、同僚の会話が耳に入った。「あの部長、株で億稼いだって噂だよ。さすがに内部情報使ってるだろ。」 冗談めかした口調だったが、悠斗の胸に刺さった。オフィスに着くと、昨夜のファイルが頭をよぎる。もう一度、確認するだけなら…。彼は再びファイルを呼び出し、TOBの詳細を読み込んだ。買付予定株数、資金調達計画、公開予定日。情報はあまりに具体的で、悠斗の理性に楔を打ち込んだ。

昼休み、悠斗はビルの屋上に出た。秋風が頬を撫で、遠くで兜町の喧騒が聞こえる。彼はスマホを取り出し、父親の番号を呼び出した。数回のコール音の後、健一の声が響いた。「お、悠斗! 珍しいな、どうした?」 悠斗は一瞬、躊躇した。だが、欲望が理性を押しつぶした。「父さん、ちょっと…面白い話があるんだ。星川工業の株、買ってみたらどうかな。なんか、動きがありそうなんだよね。」 声は平静を装っていたが、指先は震えていた。

健一は怪訝な声を上げた。「お前、東証の人間だろ? そんな話、していいのか?」 悠斗は笑って誤魔化した。「いや、ただの噂だよ。父さんが株好きだから、話しただけ。まあ、考えるだけでもいいんじゃない?」 電話を切った後、悠斗は屋上の柵に凭れ、深く息を吐いた。まだ、何もしていない。ただ、父に話しただけだ。そう自分に言い聞かせた。

だが、健一はその言葉を軽く受け止めなかった。息子が東証で働いている以上、普通の「噂」ではないと直感した。彼は妻に相談せず、貯金の半分、約2000万円を星川工業の株に投じた。証券会社のアプリで「買い注文」を確定した瞬間、健一の胸には、久しぶりの高揚感が広がった。「悠斗の言う通りなら、これは大勝負だ。」

その頃、悠斗はオフィスで、いつもの業務に戻っていた。モニターには、市場のデータが流れ、システムのログが更新される。だが、彼の心は平静ではなかった。父が本当に株を買ったのか、それとも冗談で流したのか。確認する勇気はなく、ただ、時間が過ぎるのを待った。兜町の光は、悠斗の心に影を落とし始めていた。

彼は知らなかった。SESCの監視システムが、すでに不自然な取引を検知し始めていることを。市場の裏側で、悠斗と健一の運命を決める歯車が、静かに動き出していた。

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