経済小説「闇の株券」 第1部:夜の呼び声

雑記

欲望、裏切り、破滅。ユニオンホールディングス株価操作事件を背景に、仕手筋、企業経営者、投資家、刑事、それぞれの視点から事件の裏側を描く。登場人物たちは金と権力に翻弄され、誰もが汚れた手を握り合うピカレスクな物語。

東京の夜は、いつも濡れている。兜町の路地裏、ネオンの光がアスファルトに滲む。山城豊行はタクシーを降り、銀座の裏通りにあるバーの扉を押した。店内は薄暗く、煙草の煙とウイスキーの匂いが絡み合う。カウンターの端に、黒いスーツの男が待っていた。名前は黒川博司。兜町で囁かれる「ワシントングループ」の首領だ。
「遅かったな、山城さん」黒川の声は低く、喉の奥から這い出てくるようだった。グラスの中の氷がカランと鳴る。
「道が混んでてな」山城はコートを脱ぎ、隣に腰掛けた。手には汗が滲んでいる。東陽ホールディングスの株価は、去年の新株予約権発行以来、底を這うばかりだ。銀行は冷たく、株主は騒ぐ。山城の胸には、焦りと共に何か黒いものが蠢いていた。

「話は簡単だ」黒川が煙草に火をつける。「お前の会社の株、俺が吊り上げてやる。だが、ただじゃねえ」
山城はグラスを握りしめた。黒川の目は、まるで夜の海の底だ。何も映さず、ただ飲み込む。「いくらだ?」
「一億。現金で。後は成果報酬。株が跳ねたら、俺の取り分は三割」黒川の唇が歪む。笑いとも嘲りともつかぬ表情。
一億。山城の脳裏に、会社の金庫が浮かぶ。横領すれば、すぐだ。だが、その先は? 証券取引法、監視委員会、刑事の影。

リスクはあまりに大きい。なのに、なぜか心は軽かった。金さえあれば、会社は救われる。自分も、救われる。
「考えさせてくれ」山城は言ったが、声に力はない。黒川はそれを知っている。男は黙ってグラスを空け、立ち上がった。「三日だ。それ以上待たねえ」
店を出ると、雨が降り始めていた。山城は傘も差さず、濡れたコートを羽織ったまま歩く。兜町のビル群が、黒い巨人のようにそびえている。東陽のオフィスは、その中の一角。だが、今夜の山城にとって、あのビルは牢獄だ。株価が上がらなければ、すべてが終わる。家族、地位、未来。

路地裏で、若い女が客引きの声を上げる。山城は無視して歩くが、頭の中では別の声が響く。黒川の声だ。「お前も、俺と同じだ。欲に塗れた人間だ」
翌朝、会社の会議室。役員たちは沈黙している。山城は資料を握り潰し、決断を下した。「新たな資金調達のプランを進める。詳細は後日だ」誰も反対しない。誰もが、沈む船から逃げたいだけだ。

その夜、山城は再び銀座のバーへ向かった。黒川の右腕、藤田一也が待っていた。テーブルの下で、黒い鞄が渡される。中には一億の現金。山城の手が震える。藤田は笑わない。ただ、こう言った。「ようこそ、俺たちの世界へ」
山城は知っていた。この一歩が、引き返せない道の始まりだと。だが、彼はすでに歩き始めていた。雨の兜町を、闇の底へ向かって。

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