経済小説「闇の株券」 第2部:仕手の影

雑記

欲望、裏切り、破滅。ユニオンホールディングス株価操作事件を背景に、仕手筋、企業経営者、投資家、刑事、それぞれの視点から事件の裏側を描く。登場人物たちは金と権力に翻弄され、誰もが汚れた手を握り合うピカレスクな物語。

大阪の夜は、東京より湿っぽい。北新地のクラブ「ルナ」の奥、革張りのソファに黒川博司は腰を沈めていた。店の照明は赤と紫が混ざり、まるで血と毒が交錯するようだ。テーブルの上には、シャンパンのボトルと、灰皿に山積みの吸い殻。黒川の隣には、若い女が媚びた笑みを浮かべているが、彼の目は冷たい。女の存在など、空気と同じだ。

「山城から金は入ったか?」黒川の声は、氷の刃のようだった。対面に座る男、藤田一也が頷く。黒川の右腕であり、「ワシントングループ」の実働部隊の頭だ。藤田は黒い鞄をテーブルに置き、ジッパーを開ける。中には、帯封のついた札束。一億。東陽ホールディングスの命綱であり、黒川の新たな遊び道具。

「問題なし。昨夜、銀座で受け取った」藤田の口調は事務的だが、額に汗が滲む。黒川の前では、誰もがそうなる。

黒川は煙草をくわえ、火をつける。紫煙が螺旋を描き、天井のシャンデリアに消える。「東陽の株、明日から動かす。買いをぶち込む。出来高を上げて、市場の目を引くんだ」彼の言葉には、どこか楽しげな響きがあった。株価を操るのは、黒川にとってチェス盤の駒を動かすようなゲームだ。だが、負けた駒は血を流す。

藤田が眉を寄せる。「リスクは? 監視委員会が最近、うるさい。去年の件で、仲間が何人も飛んだ」

黒川の唇が歪む。笑いなのか、軽蔑なのか。「心配するな。山城はカモだ。あいつの欲が、俺たちの盾になる。証券取引等監視委員会? 奴らが嗅ぎつける頃には、俺たちはもう次のゲームにいる」

北新地の裏通り、ネオンが途切れる一角に、黒川のもう一つの「事務所」がある。表向きは不動産会社だが、実態は闇金の巣窟だ。そこでは、黒川の部下たちが東陽ホールディングスの株価操作の準備を進めていた。ダミーの口座、匿名化された取引プログラム、市場を欺くための偽装注文。すべては、黒川の頭の中で完璧に組み上がっている。

「藤田、お前は東京に戻れ。兜町の連中に、動きを合わせろと伝えろ。タイミングが命だ。一秒のズレも許さん」黒川の目が光る。藤田は黙って頷き、鞄を手に立ち上がる。だが、その背中に、黒川の声が突き刺さる。「裏切ったら、終わりだぞ。家族ごとな」

藤田の背中が一瞬、硬直する。黒川の言葉は脅しではない。事実だ。ワシントングループの掟は単純だ。忠誠か、死か。藤田は振り返らず、クラブの出口へ向かった。ドアの向こうで、雨が降り始めていた。

黒川は一人、ソファに残る。シャンパンを口に含み、目を閉じる。頭の中では、東陽の株価チャートが浮かんでいる。200円、300円、500円。数字が跳ねるたび、金が流れ、誰かが破滅する。黒川にとって、それはただの風景だ。20年前、彼もまた兜町の路地裏で這いずるチンピラだった。だが今、彼は王だ。少なくとも、この闇の中では。

店の奥で、女が再び近づいてくる。「博司さん、もっと飲まない?」甘ったるい声。黒川は目を開け、女を一瞥する。「消えろ」と一言。女は怯えたように下がるが、黒川の心はすでに別の場所にあった。山城の顔が浮かぶ。あの男の目には、欲と恐怖が混ざっていた。黒川は知っている。そんな男は、必ず裏切る。だが、それもまた、ゲームの一部だ。

翌朝、兜町の取引所が開く。東陽ホールディングスの株価が、突如として跳ね上がる。出来高は前日の10倍。ネットの掲示板では、素人投資家たちが騒ぎ始める。「東陽、仕手株だ!」「今買えば億万長者!」黒川は大阪の事務所で、モニターに映る数字を眺めていた。唇の端が、わずかに上がる。

だが、その背後で、別の影が動いていた。藤田の携帯に、知らない番号からの着信。男の声が、低く響く。「黒川を売れ。報酬は5千万だ」藤田の手が、震えた。

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