第2章:禁断の囁き
佐藤悠斗の心は、まるで嵐の海のように揺れていた。2024年10月中旬、東京証券取引所(東証)のオフィスで、彼はいつものようにモニターに向かっていたが、頭の中はあの夜に見た「星川工業株式会社_機密」のファイルでいっぱいだった。星川工業が大手製造メーカーによる株式公開買い付け(TOB)の対象となり、株価が1.8倍に跳ね上がる予定だという情報。公開は11月中旬。あと1ヶ月もすれば、市場は狂騒に包まれるだろう。悠斗の指はキーボードの上で止まり、視線はぼんやりと画面の端に漂った。
「あの情報を…使えば…」 頭をよぎる考えを、悠斗は何度も振り払おうとした。東証の社員として、インサイダー取引の違法性は叩き込まれている。研修では、金融商品取引法166条の条文を何度も読み上げさせられた。「会社関係者が未公開の重要事実に基づいて取引することは、懲役5年以下、罰金500万円以下の罪に問われる。」 さらに、2014年に導入された「取引推奨罪」により、情報を第三者に漏らし取引を勧めても処罰される。悠斗は知っていた。市場の「番人」である自分が、そんな愚かな過ちを犯すはずがない。
だが、欲望は蛇のように心に忍び寄った。前夜、父親の健一に電話で星川工業の株を「買ってみたら」と囁いた瞬間、悠斗は一線を越えた気がしていた。あれはただの雑談だ。冗談だ。そう自分に言い聞かせたが、健一の反応が気になって仕方なかった。「お前、東証の人間だろ? そんな話、していいのか?」 父の怪訝な声が耳に残る。健一は本当に株を買ったのか? それとも、いつものように笑って流したのか? 確認する勇気はなかった。知ってしまえば、自分の行為の重さが現実になる気がした。
オフィスの空気はいつも通りだった。システム管理部門のフロアは、サーバーの低いうなり音とキーボードの打鍵音で満たされている。隣のデスクでは、同僚の田中がコーヒーを飲みながら市場監視システムのログをチェックしていた。「佐藤、最近顔色悪いぞ。残業しすぎじゃね?」 田中の軽い口調に、悠斗は無理やり笑顔を浮かべた。「まあ、ちょっと寝不足かな。システムのアップデートでバタバタしててさ。」 本当は、星川工業のファイルが頭から離れないせいだった。
昼休み、悠斗はいつものようにコンビニ弁当を手にビルの屋上へ向かった。兜町の喧騒が遠くに聞こえ、秋の風がスーツの襟を揺らす。屋上の柵に凭れながら、彼はスマホを取り出した。健一からのメッセージはない。父はあの話をどう受け止めたのか。悠斗の指は、証券会社のアプリを開きそうになり、慌ててホーム画面に戻した。「落ち着け。俺は何もしてない。ただ、話しただけだ。」 だが、心の奥で別の声が囁く。「もし父さんが買って、儲けたら? お前もその一部をもらえるかもしれないぞ。」
その夜、悠斗はアパートに帰っても落ち着かなかった。ワンルームの部屋は、蛍光灯の白い光で無機質に照らされている。冷蔵庫からビールを取り出し、一気に半分を飲み干した。テレビでは、経済ニュースが流れている。キャスターが「星川工業の株価が最近、じわじわ上昇している」とコメントしていた。悠斗の手が止まった。「まさか…もう情報が漏れてる?」 いや、そんなはずはない。ファイルは機密指定で、アクセス権限は限られている。だが、不安は膨らむばかりだった。
翌日、健一からLINEが届いた。「悠斗、例の話、ちょっと動いてみることにしたよ。面白いことになりそうだな!」 絵文字のウインクが、妙に不気味に見えた。悠斗の胃が締め付けられる。「動いてみるって…まさか、買ったのか?」 返信しようとしたが、言葉が出てこない。もし健一が株を買ったなら、自分が情報を漏らしたことが現実になる。だが、知らないふりをすれば、まだ「ただの雑談」で済むかもしれない。悠斗はメッセージを無視し、スマホをベッドに放り投げた。
オフィスに戻ると、星川工業のファイルが再び気になり始めた。もう一度確認すれば、何か安心できるかもしれない。悠斗は周囲を確認し、誰も見ていないことを確かめてから、機密フォルダを開いた。TOBの詳細は前回と同じ。買付価格、株数、資金調達計画。すべてが具体的で、市場を揺るがす力を持っていた。ファイルを閉じると、アクセスログに自分のIDが残ることに気づき、背筋が冷えた。「まずい…何度も開いてる。」 だが、システム管理者である自分なら、ログを消すこともできるのではないか? そんな考えが一瞬よぎったが、すぐに打ち消した。「そこまでしたら、本当に後戻りできない。」
その週末、悠斗は実家に帰った。東京郊外の閑静な住宅街に立つ、築30年の一軒家。健一と母の美佐子が迎えてくれた。食卓には、美佐子の手作りの肉じゃがと焼き魚が並ぶ。普段なら和やかな夕食のはずだったが、悠斗の心は重かった。健一がニヤリと笑い、「悠斗、最近仕事どうだ? 何か面白い話ないか?」と切り出した。美佐子が「また株の話? いい加減にしなさいよ」と笑う中、悠斗は愛想笑いでごまかした。だが、健一の目には、どこか探るような光があった。
食事が終わり、美佐子がキッチンに立った隙に、健一が声を潜めた。「悠斗、先週の話、覚えてるよな? 星川工業、2000万突っ込んじまった。どうだ、この勝負!」 悠斗の箸が止まった。2000万円。父の貯金の半分だ。「…マジで買ったの? 父さん、冗談だろ?」 声が震えた。健一は得意げに頷いた。「お前の話、なんか本物っぽかったからな。発表が楽しみだぜ。」 悠斗の頭は真っ白になった。自分が軽い気持ちで漏らした言葉が、父をこんな大きな賭けに走らせたのだ。
「父さん、あの話、忘れてくれ。マジでやばいんだ。」 悠斗は必死で言葉を絞り出した。だが、健一は笑い飛ばした。「何だよ、今さらビビってんのか? 大丈夫、俺の名前で買ってるんだから、お前には関係ないだろ。」 その言葉が、逆に悠斗の罪悪感を煽った。関係ないはずがない。自分が情報を漏らさなければ、こんな事態にはならなかったのだ。
月曜日、オフィスに戻った悠斗は、まるで幽霊のようだった。田中が「佐藤、マジで大丈夫か? 病院行ったほうがいいぞ」と心配するほど、顔色は悪かった。仕事中も、星川工業の株価が気になって仕方ない。ネットの掲示板では、すでに「星川に何かあるらしい」との噂がちらほら流れていた。悠斗の不安はピークに達した。「漏洩してるのか? 俺のせいか?」 だが、真相を知る術はなかった。
その頃、証券取引等監視委員会(SESC)のオフィスでは、別の動きが始まっていた。監視システムが、星川工業の株価の不自然な動きを検知したのだ。TOBの噂が市場に広まる前から、特定の個人投資家が大量に買い込んでいる。特に、健一の口座が目を引いた。2000万円の買い注文は、彼の過去の取引規模と比べて異様に大きかった。調査官の一人が、健一のプロファイルを調べ、息子が東証社員であることを発見した。「これは…インサイダーの匂いがする。」 調査チームは、悠斗のアクセスログと健一の取引履歴の照合を開始した。
悠斗は、SESCの動きを全く知らなかった。だが、毎晩のように悪夢にうなされた。法廷で手錠をかけられる自分、失望した母の顔、冷ややかな同僚の視線。ビールを飲んでも、テレビを見ても、心のざわめきは収まらない。ある夜、健一から再びLINEが届いた。「悠斗、星川の株、ちょっと上がってるぞ! お前の読み、すげえな!」 メッセージの最後に、シャンパンの絵文字。悠斗はスマホを握り潰しそうになった。「やめろ…もうやめてくれ…」
10月末、星川工業の株価は、噂を背景にじわじわと上昇していた。健一の口座には、すでに500万円の含み益が生まれていた。悠斗は、父に売却を懇願しようと思ったが、電話をかける勇気が出ない。もし売却すれば、利益が確定し、インサイダー取引の証拠が明確になる。だが、放置すれば、SESCの監視網に引っかかる可能性が高まる。進むも退くも地獄だった。
兜町の夜は、ネオンの光で輝いている。だが、悠斗の心は闇に沈んでいた。禁断の囁きは、父子の運命を、市場の冷酷な裁きへと導こうとしていた。