第3章:欲望の果実
2024年11月、東京・兜町の空は灰色の雲に覆われていた。秋の終わりを告げる冷たい風がビルの谷間を抜け、東京証券取引所(東証)のガラス張りの外壁に小さな水滴を残した。7階のシステム管理部門で、佐藤悠斗はモニターの前に座っていたが、彼の目は画面の数字を追っていなかった。心は、星川工業株式会社の未公開情報と、父親・健一との危険な共謀に縛られていた。あの夜の電話、「星川工業の株、買ってみたら」という軽率な一言が、父子を市場の闇へと引きずり込んでいた。
星川工業の株式公開買い付け(TOB)の発表は、11月中旬に迫っていた。ネットの投資掲示板では、「星川に何かある」との噂が飛び交い、株価はすでに10%上昇していた。悠斗がオフィスの端末で確認したところ、健一が2000万円で購入した株は、700万円の含み益を生んでいた。だが、その事実は悠斗に喜びではなく、恐怖をもたらした。「父さんがこのまま持ち続けたら…いや、売却しても、SESCにバレるかもしれない。」 証券取引等監視委員会(SESC)の監視システムは、異常な取引を逃さない。悠斗自身、そのシステムのメンテナンスに携わってきたのだから、誰もその精度を知っていた。
あの夜の電話の後、健一は悠斗の言葉をただの「噂」とは受け止めなかった。元地方銀行支店長で、株取引に30年以上の経験を持つ健一は、息子が東証のシステム管理者であることを知っていた。「動きがありそう」という曖昧な言葉の裏に、未公開情報の匂いを嗅ぎ取ったのだ。電話を切った後、健一は妻・美佐子に隠れて証券会社のアプリを開き、貯金の半分、2000万円を星川工業の株に投じた。注文を確定した瞬間、彼の胸には高揚感と同時に、危険な賭けに出た自覚が広がった。「悠斗がこんな話を持ち込むなんて…こいつ、ホンモノの情報を握ってるな。」 健一は、インサイダー取引のリスクを知りながら、欲望に目を眩ませた。
悠斗もまた、健一の反応から、父がただの「親子の雑談」とは思っていないことを察していた。電話の翌日、健一から届いたLINEには、「悠斗、例の話、動いたぞ。面白いことになりそうだな!」とあり、ウインクの絵文字が添えられていた。悠斗の胃が締め付けられた。「父さん…マジで買ったのか?」 返信しようとしたが、言葉が出てこない。自分が漏らした情報が、父を危険な賭けに走らせた。だが、どこかで、健一が利益を得れば自分もその恩恵に浴するかもしれないという、汚れた期待が芽生えていた。「父さんが儲けたら、俺にも少し…いや、そんなこと考えちゃダメだ。」 理性と欲望がせめぎ合い、悠斗の心は乱れた。
オフィスでは、いつも通りの業務が続いていた。モニターに株価データが流れ、同僚の田中がコーヒーを飲みながら「星川の株、なんか怪しい動きしてるな」と呟く。悠斗は心臓が跳ね上がり、平静を装って「へえ、そうなの?」と答えた。田中は気づかず、「インサイダーでもいるんじゃね? ハハ」と笑った。その軽い言葉が、悠斗の胸に突き刺さった。「インサイダー…それ、俺と父さんだ。」 彼はトイレに駆け込み、洗面台で顔を洗った。鏡に映る自分の顔は、青ざめ、目が落ちくぼんでいる。「俺たちは…何やってるんだ…?」
その夜、健一から電話がかかってきた。声は興奮に満ちていた。「悠斗、星川の株、すでに700万の含み益だぞ! お前の読み、すげえな!」 悠斗は震える声で応じた。「父さん、売ったほうがいいよ。マジで危ない。SESCが…動くかもしれない。」 だが、健一は笑い飛ばした。「ビビるなよ、悠斗。こんなチャンス、滅多にねえんだ。もう少し持って、億り人狙うぜ!」 健一の声には、欲望だけでなく、息子との共謀を暗に認める響きがあった。「お前も、この儲けの一部、欲しいだろ? な?」 悠斗は言葉に詰まった。「父さん、俺は…そんなつもりじゃ…」 だが、健一は遮った。「いいから、任せとけ。俺とお前で、この勝負、勝つんだよ。」 電話が切れた後、悠斗はソファに崩れ落ちた。父との共謀は、もはや後戻りできないほど深まっていた。
11月10日、運命の日が訪れた。朝9時、東証の取引開始と同時に、星川工業のTOBが正式に発表された。大手製造メーカーが、1株1800円で全株を買い付ける計画を公表。市場は瞬時に反応し、星川工業の株価は前日比80%高の1900円に急騰した。ニュースサイトは「星川工業、奇跡の復活!」と煽り、投資家のSNSは歓喜と嫉妬で埋め尽くされた。健一の2000万円の投資は、一夜にして3600万円に化けた。1600万円の利益。健一からのLINEは、絵文字の嵐だった。「悠斗、すげえ! 俺たち、大勝利だ!」「今夜、祝杯だな!」 だが、悠斗はメッセージを読むことすらできなかった。胃がキリキリと締め付けられ、吐き気がした。
健一は、利益を確定する前に悠斗に相談した。「悠斗、売るか? それとも、もう少し持つ? お前、どう思う?」 声には、共犯者としての信頼と、さらなる儲けへの誘惑が込められていた。悠斗は叫びそうになった。「売ってくれ、父さん! 今すぐ売らないと、絶対バレる! SESCのシステム、俺が作ったんだぞ!」 健一は一瞬黙り、鼻で笑った。「お前、ビビりすぎだ。まあ、わかった。売るよ。で、儲けの半分、お前にやるからな。」 悠斗は拒否しようとしたが、声が出なかった。父の言葉は、彼を共犯の泥沼に引きずり込んだ。
その夜、健一は星川工業の株を全株売却。3600万円が口座に振り込まれ、1600万円の利益が確定した。健一は悠斗に800万円を振り込むとLINEで告げた。「お前の取り分だ。使い道、考えとけよ。」 悠斗は口座を確認し、眩暈がした。「俺…受け取ったら、完全に共犯だ…」 だが、欲望の一瞬が、彼の手を止めた。800万円。新しいパソコン、海外旅行、夢の生活。その誘惑は、理性の最後の防波堤を崩した。
その頃、SESCのオフィスでは、調査が本格化していた。星川工業の株価急騰の前、異常な買い注文を入れた口座が特定され、健一の2000万円の取引が特に注目された。調査官の佐々木は、健一のプロファイルを調べ、息子が東証社員であることを確認。「佐藤悠斗、機密情報へのアクセス権限あり。父親に漏洩した可能性が高い。」 佐々木は、悠斗の端末ログと健一の取引履歴を照合。ログの日時が、健一の買い注文と一致した。「これは、父子の共謀だ。」 チームは、強制調査の準備を始めた。
悠斗は、SESCの動きを知らなかった。だが、健一からの800万円が口座に振り込まれた瞬間、罪の重さが現実になった。夜、アパートでビールを飲みながら、悠斗は呟いた。「俺たちは…もう逃げられない。」 健一もまた、自宅で美佐子に隠れて口座を眺め、ほくそ笑んだ。「悠斗と俺、完璧なチームだな。」 だが、その笑顔の裏には、市場の冷酷な裁きが迫っている予感があった。
兜町のネオンは、夜空を照らし続けていた。父子の欲望の果実は、甘い誘惑を残しながら、毒に変わりつつあった。SESCの足音は、すぐそこまで迫っていた。