第4章:闇の訪れ
2024年11月下旬、東京・兜町は冬の気配に包まれていた。冷たい霧がビルの谷間を漂い、東京証券取引所(東証)のガラス張りの外壁は鈍い光を放っていた。7階のシステム管理部門で、佐藤悠斗はモニターの前に座っていたが、彼の手はキーボードに触れず、ただ震えていた。星川工業株式会社の株式公開買い付け(TOB)が発表されて2週間。父・健一が2000万円の投資で1600万円の利益を確定し、悠斗に800万円を振り込んだ瞬間から、彼らの共謀は取り返しのつかない罪に変わっていた。悠斗が漏らした未公開情報が父を誘い、父の欲望が悠斗を共犯の泥沼に引きずり込んだ。証券取引等監視委員会(SESC)の追及が迫る中、父子の心は闇に沈んでいた。
オフィスの喧騒は、まるで遠い世界の音だった。モニターには株価データが流れ、同僚の田中が「星川のTOB、すげえ話題だな。インサイダー疑惑でSESCが動いてるらしいぜ」と軽い口調で話す。その言葉に、悠斗の心臓が締め付けられた。「疑惑…? もうバレてるのか?」 彼は平静を装い、「へえ、そうなんだ」と呟いたが、声はかすれていた。田中は気づかず、「こんなデカい動き、誰か嗅ぎつけててもおかしくねえよな」と笑った。悠斗は書類を握り潰し、視線をモニターに戻した。だが、頭に浮かぶのは、SESCの調査官が迫ってくる幻影だけだった。
悠斗の日常は、崩れ始めていた。夜のアパートでは、眠れぬ時間をビールでごまかしたが、悪夢が襲ってきた。手錠をかけられ、法廷で冷ややかな視線に晒される自分。母・美佐子の涙、健一の怒り。そして、田中が囁く声。「佐藤がインサイダー? 信じられねえ…いや、アイツならやりかねない。」 目を覚ますと、汗でシャツがびっしょりだった。スマホには、健一からのLINEが未読のまま溜まっている。「悠斗、800万、ちゃんと使えよ。次もいい話、頼むぜ。」 父の共犯の言葉が、悠斗の罪悪感をえぐった。
健一もまた、自宅で不安と興奮の狭間にいた。元銀行支店長の彼は、インサイダー取引のリスクを知っていた。悠斗の「星川工業の株、買ってみたら」は、ただの助言ではないと直感し、欲望に駆られて2000万円を投じた。利益の1600万円を確定し、悠斗に半分を渡したのは、共犯としての絆を固めるためだった。「俺とお前で、市場を出し抜いたんだ。」 健一は美佐子に隠れて口座を眺め、ほくそ笑んだ。だが、証券会社からの不自然な連絡——ソースコードをチェックした。
「あなたの口座、SESCが調査してるって。星川の取引、問題らしい。」 健一の笑顔が凍りついた。「悠斗のせいで…いや、俺も…やっちまった。」 彼は悠斗に電話をかけ、怒りをぶつけた。「お前、ちゃんと話せよ! SESCが動いてるぞ! 俺たちの儲け、どうなるんだ!」 悠斗は震える声で応じた。「父さん、俺も…知らなかったんだ。こんな大事になるなんて…」 だが、健一は遮った。「知らなかった? お前が持ち込んだ話だろ! 俺を巻き込んだのはお前だ!」 電話は一方的に切れた。
12月に入り、兜町の空気はさらに重くなった。星川工業のTOBを巡る報道が過熱し、「インサイダー取引の疑い」との記事が経済紙に躍った。「関係者の家族による取引が焦点」と書かれ、悠斗はスマホを落としそうになった。「関係者の家族…俺と父さんだ。」 健一もまた、ニュースを見て青ざめた。「悠斗のせいだ…でも、俺も欲をかいた。」 彼は美佐子に隠れて、別の証券口座を確認。1600万円の利益は、毒のように輝いていた。
オフィスで、異変が起きた。昼過ぎ、システム管理部門の部長が悠斗を会議室に呼んだ。部長の顔は硬く、いつもと違う空気が漂っていた。「佐藤、SESCから問い合わせだ。星川の機密ファイル、君が何度もアクセスしてるな?」 悠斗の血の気が引いた。ログ。自分が管理者権限で開いた記録が、すべて残っている。「あ、えっと…システムのチェックで…」 しどろもどろの弁明に、部長は目を細めた。「SESCは本気だ。隠し事があるなら、今話せ。」 会議室を出た悠斗は、トイレで顔を洗った。鏡に映る自分は幽霊のようだ。「バレた…終わりだ…」
その夜、健一がアパートに押しかけてきた。「悠斗、話がある。SESCが俺の口座を調べやがった。どうするんだ、これ!」 健一の目は血走り、共犯の焦りが滲んでいた。悠斗は声を荒げた。「父さん、俺だってビビってる! あんたが欲を出して、800万も押しつけたから…!」 健一は拳を握り、「お前が情報を持ってきたんだろ! 俺はお前の話に乗っただけだ!」 父子の間で、互いへの不信が爆発した。健一はドアを叩きつけて去り、悠斗は床に崩れ落ちた。「俺たち…共犯なんだ…」
2024年12月3日、闇が訪れた。朝6時、悠斗のアパートのドアが激しくノックされた。「佐藤悠斗、証券取引等監視委員会です。開けなさい。」 スーツ姿の調査官が令状を手に立ち、悠斗は震える手でドアを開けた。「金融商品取引法違反の疑いで、任意同行を求める。パソコンとスマホを押収する。」 部屋は捜索され、悠斗の私物が袋に詰められた。隣の住人が覗く気配がしたが、悠斗には気にする余裕もなかった。
同時に、健一の自宅にも調査官が現れた。美佐子の前で、健一は青ざめて事情聴取を受けた。「息子から星川の情報を得て、取引したのは事実ですね?」 調査官の声に、健一はうなだれた。「はい…悠斗の話に乗った。けど、俺も…欲をかいたんです。」 美佐子は呆然とし、「あなたたち、何をしたの?」と呟いた。健一は目を逸らし、答えられなかった。
SESCの尋問室で、悠斗は調査官の佐々木と対峙した。「佐藤悠斗、君が星川のTOB情報を父親に漏らし、取引を勧めたな?」 佐々木の声は氷のようだった。悠斗はうつむき、震えた。「ただ…親子の会話だったんです。はっきり買えとは…」 だが、佐々木はログと取引履歴を突きつけた。「君のアクセス時間と父親の買い注文が一致。共謀の証拠だ。」 悠斗の弁明は、証拠に潰された。
健一も別の部屋で追及された。「佐藤健一、息子の情報で1600万円の利益を得た。これはインサイダー取引だ。」 健一は声を荒げた。「悠斗が持ち込んだ! 俺は…ただ、チャンスだと思っただけだ!」 調査官は冷ややかに続けた。「あなたもリスクを知っていたはず。共犯として罪を逃れられない。」
その夜、悠斗はアパートに戻されたが、心は折れていた。スマホは押収され、SESCの次の呼び出しを待つだけ。健一との連絡は途絶え、美佐子からのLINEには「どうして…」とだけ。東証の同僚の間では噂が広がった。「佐藤、インサイダーでSESCに呼ばれたらしい。」 田中の呆れた声が響いた。悠斗はオフィスに行けず、無断欠勤を重ねた。
12月中旬、SESCは悠斗と健一を東京地検特捜部に告発。ニュースは「東証社員と父のインサイダー共謀」として報じられ、兜町に衝撃が走った。東証は記者会見で「情報管理を強化する」と表明したが、市場の信頼は揺らいだ。悠斗と健一の共犯は、市場の光を闇に変えた。
悠斗は窓から兜町のビルを見た。かつての希望の光は、冷酷な裁きの刃だった。健一は自宅で美佐子に背を向け、沈黙した。父子の共謀は、闇に飲み込まれた。


