東京の雑居ビル、薄汚れたネットカフェの個室。佐藤健太、27歳、派遣社員。モニターの光が彼の顔を青く照らす。画面には、東陽ホールディングスの株価チャート。200円だった株が、3日で400円に跳ね上がっている。ネット掲示板は熱に浮かされたように騒がしい。「東陽は仕手株!」「今買わなきゃ億万長者逃すぞ!」健太の指が、マウスを握りしめる。心臓が早鐘を打つ。
健太の人生は、いつも半歩遅かった。大学中退、恋人なし、貯金は30万。実家は千葉の寂れた団地で、母はパート、父は酒浸りだ。だが、この株は違う。掲示板の書き込みが、健太の耳元で囁く。「お前も勝てる。金持ちになれる」と。
彼はネットバンクを開き、貯金を全額、東陽株に突っ込んだ。30万円で750株。画面に映る数字が、健太の未来を約束しているように見えた。夜のネットカフェは、汗とタバコの匂いがこもる。隣のブースから、誰かの咳が聞こえる。健太は気にしない。頭の中は、金の夢でいっぱいだ。
翌日、株価はさらに跳ねた。500円。健太の含み益は20万を超える。彼は派遣の仕事をサボり、ネットカフェに籠もる。掲示板で「億トレーダー」と名乗る匿名ユーザーが書き込む。「東陽は1000円まで行く。信用取引でレバレッジかけろ」。健太は知らなかった。信用取引のリスクも、仕手株の罠も。だが、欲は彼の目を曇らせていた。
健太は消費者金融に電話をかけた。限度額50万を借り、信用取引で東陽株を追加購入。1500株。総額750万のポジション。画面の数字が上がるたび、健太の胸は高鳴る。金持ちの生活が、すぐそこに見える。銀座のバー、高級車、女。すべてが手に入る。
だが、その夜、異変が起きた。東陽の株価が急落。500円から一気に350円へ。掲示板はパニックに陥る。「売り抜けられた!」「仕手が逃げたぞ!」健太の含み損は200万を超える。追証の通知が、ネットバンクに届く。返済期限は3日後。健太の手が震える。消費者金融の督促電話が、夜中に鳴り始める。
彼はネットカフェを出て、雨の新宿を彷徨った。ネオンの光が、健太の顔を濡らす。路地裏で、ホームレスの男が段ボールにくるまる。健太は思う。あんな風になるのか? いや、違う。まだチャンスはある。東陽が戻れば、すべてが取り戻せる。
健太は知らなかった。自分の金が、黒川博司のポケットに流れていることを。山城の焦りが、黒川の冷酷な計画が、健太のようなカモを食い物にしていることを。雨の中、健太は携帯を開き、掲示板に書き込む。「東陽、絶対戻るよな? 誰か教えてくれ」。返事はない。闇だけが、健太を包む。



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