投資顧問を批判するサイトは、調べれば山ほど出てくる。「詐欺まがい」「返金できない」「推奨銘柄が全部外れ」——そういう体験談を読んで、「気をつけよう」と思った人間は多いはずだ。自分も含めて。
でも不思議なのは、批判サイトを読み漁った人間が、別の投資顧問に課金していたりする。「あそこはダメだが、ここは本物だ」という確信を持って。
ミイラ取りがミイラになる、という言葉があるけど、これはモラルの話じゃない。構造の話だと思っている。
投資顧問は競馬予想屋と同じ商売か
結論から言うと、構造はかなり似ている。
競馬の予想屋は「先週は3連単を的中させました」という実績を掲げて客を引く。投資顧問は「直近◯ヶ月の推奨銘柄平均リターン◯%」を前面に押し出す。どちらも過去の成功を売り物にして未来の不確実性に値段をつける商売だ。
ただ一点、違う部分がある。競馬でも情報分析によって一定の優位性を主張する人はいるし、それを否定する気はない。ただ、その優位性を第三者が継続的に検証することは難しい。投資も同じで、企業の本質的価値や財務を読む力で有意差を出せる余地は理論上ある——でも、その有意差を顧客側が検証できるかというと、ほぼ無理に近い。
競馬予想は的中率や回収率など、少なくとも結果を比較する指標が比較的分かりやすい。投資顧問の推奨リターンは計算方法次第でいくらでも見え方が変わる。検証が難しいぶん、利用者が評価を誤りやすい側面は確実にある。
なぜ「賢いつもりの人間」が嵌まるのか
ここが本題だ。
投資顧問に縋る人を「情報弱者」と片付けるのは簡単だが、実態はそうじゃない。批判サイトを読んだ人、ある程度の知識がある人、「自分はだまされない」と思っている人——そういう層が嵌まっていく。なぜか。
動機を分解すると、3層になっている気がする。
長年相場を見ていると、この③のパターンを繰り返す人間を少なからず見てきた。悪い人たちじゃない。むしろ勉強熱心で、真剣に相場に向き合っている。だからこそ、「自分の目利きで本物を見つけた」という確信が生まれやすい。
「不確実性にラベルを貼って売る」という商売の本質
競馬予想屋も投資顧問も、本質は同じところにある。
不確実な未来を、まるで読めるかのような体裁で売っている。
これは別に悪しき陰謀論でもなく、需要と供給の話でもある。人間は不確実性に耐えるのが苦手で、「誰かが知っているかもしれない」という可能性に金を払う。保険も宗教もコンサルタントも、ある種それに近い構造を持っている。
投資顧問が特殊なのは、「情報」という形で売られているところだ。情報は手触りがないし、効果の検証に時間がかかる。その間に「自分の使い方が悪かった」という解釈が先に入ってくる。
詐欺の手口を知ることと、自分が詐欺に遭わないことは別問題だ。知識は警戒心を高める一方で、「自分だけは見抜ける」という過信も生みやすい。そしてその過信を刺激するサービスほど、かえって魅力的に見えてしまう——「あなたは賢いから分かるはずだ」という語り口が一番効く。
批判サイトは免疫を与えているようで、実は「自分は見抜ける」という過信を育てているかもしれない。正直、ここが一番不気味だと思っている。構造を知ることと、その構造から自由になることは、どうも別問題らしい。
では、投資顧問を使っていい場面はあるか
これは一応書いておく。
金融商品取引法に基づいて登録された投資顧問業者(投資助言・代理業)は、金融庁(財務局)への登録制度の対象となっており、無登録業者とは法的に別物だ(要出典確認:金融庁登録業者リストで確認を)。情報の質という意味では、金融庁に登録された投資助言業者と、無登録で運営されている情報商材・SNS系サロンは同列に語れない部分もある。
ただ、金融庁の登録業者だから信頼できる、というわけでもない。無登録投資顧問は論外として、登録業者であっても推奨銘柄のパフォーマンスを第三者が継続検証した例はほとんどない。手数料の構造上、頻繁な売買を促すインセンティブが働きやすいのも、投資助言・代理業に共通する構造的な問題だ。
最後の一個が一番大事だと思っている。課金した瞬間、人は無意識にその情報を「正しいもの」として処理し始める。それが一番怖い。
ミイラ取りがミイラになる、本当の理由
批判することと、免疫を持つことは、別の話だ。
投資顧問の構造的な問題を理解していても、「一攫千金の夢」「仕手株の匂い」「株クラで注目される快感」——これらの欲望は、知識で消せるものじゃない。むしろ相場経験が長くなるほど、「本物を見分ける目が育った」という錯覚が強くなって、判断が鈍る場面がある。
ミイラ取りがミイラになるのは、モラルの欠如でも、勉強不足でもない。欲望の構造を正確に理解していないからだ。批判の対象を理解することと、自分の中にある同じ欲望を認識することは、全然違う作業になる。
投資顧問の問題は、情報の真偽だけではない。不確実な未来に「確実らしさ」を求めてしまう、人間の心理そのものにある。だからこそ、相手を疑うだけでは足りない。最後に疑うべきなのは、「今回は自分だけは見抜ける」という、自分自身の確信なのかもしれない。
