無罪になった人を、最後まで「犯人」と呼ぶということ

コラム・読み物

袴田巖さんの再審無罪が確定した。

1966年に逮捕され、死刑判決を受け、47年7か月もの間、拘置所の中で生きてきた人である。

2024年9月26日、静岡地方裁判所は再審で無罪判決を言い渡した。そして10月8日、検察は控訴を断念し、無罪が確定した。

ここだけを見れば、ようやく終わった事件に思える。

けれど、検察が控訴を断念したときに出した検事総長談話を読むと、どうにも胸に引っかかる。

検察は控訴しないと決めながらも、再審判決については「到底承服できない」という趣旨の見解を示し、袴田さんが犯人であることについての立証は可能だった、という立場を残した。

つまり、

「無罪になったから、袴田さんは無実でした。申し訳ありませんでした」

という単純な話ではなかった。

控訴はしない。

しかし、検察としては判決には納得していない。

この二つが同時に存在している。

私はここに、司法というものの難しさと、少し怖さを感じる。

もちろん、検察にも検察の論理がある。

長年にわたって捜査し、裁判で有罪を主張してきた事件について、「自分たちの判断は間違っていました」と簡単に認めることができない事情もあるのだろう。

国家が人を裁く以上、捜査機関にも責任がある。

だからこそ、誤りを認めることは組織にとって非常に重い。

でも、裁判所が再審で無罪を言い渡し、検察自身が控訴しないと決めたのであれば、その時点で社会に残る言葉はもっと慎重であっていいのではないかと思う。

なぜなら、その先にいるのは「事件」ではなく、一人の人間だからだ。

30歳だった袴田さんは、90歳になった。

本来なら、働いて、恋愛をして、結婚して、子どもを育てて、酒を飲んで、旅行をして、年を取っていくはずだった。

その47年7か月を誰も返すことはできない。

「申し訳ありませんでした」と言われても、失われた時間は戻ってこない。

だから私は、冤罪事件を見るとき、「裁判所が間違ったのか」「警察が悪かったのか」「検察が悪かったのか」という話だけでは足りないように思う。

もっと単純なことを考えたい。

もし、自分が何もしていないのに犯人にされたら。

もし、家族が犯人扱いされたら。

そして何十年も経ったあと、ようやく無罪になったのに、

「無罪にはなりました。でも、私たちはあなたが犯人だったと思っています」

と言われたら。

その言葉を、どう受け止めればいいのだろう。

司法に間違いがあること自体を、完全になくすことは難しいのかもしれない。

人間が人間を裁く以上、間違いは起こり得る。

だからこそ大切なのは、間違いを起こさないことだけではなく、間違いが起きたときに、どれだけ素直に認められるかではないだろうか。

強い組織とは、絶対に間違わない組織ではない。

間違ったときに、「間違っていました」と言える組織なのだと思う。

袴田事件では、証拠の捏造や証拠の扱いをめぐって再審で厳しい判断が示された。

それでも最後まで「納得できない」という言葉が残った。

私は、その言葉そのものを責めたいわけではない。

検察にも、組織としての苦悩があったのだろう。

ただ、国家から「あなたが犯人だ」と言われ、人生の大半を奪われた人に対して、最後に必要だった言葉は何だったのか。

そこは、私たちが考え続けなければいけない。

裁判が終わったから、事件が終わるわけではない。

無罪が確定したから、失われた人生が戻るわけでもない。

そして何より怖いのは、司法が間違ったとき、その間違いを「正しい」と信じたまま、人生を奪われる人が存在してしまうことだ。

袴田さんが90歳になった今、私たちが考えるべきなのは、彼が「本当は犯人だったのか」ということだけではない。

国家が一人の人間を犯人と断定するとき、そこにはどれほどの慎重さが必要なのか。

そして、

一度「犯人」とされた人間から、その言葉を取り除くことは、無罪判決だけで本当にできるのか。

この問いは、袴田さんだけの問題ではない。

いつか自分が、あるいは自分の大切な人が、司法の「間違い」の側に立ってしまう可能性だって、ゼロではないのだから。

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