終章:教訓
2025年10月、東京・兜町の空は秋の澄んだ青さに輝いていた。東京証券取引所(東証)のガラス張りのビルは、朝日を浴びて眩しく光り、市場の鼓動が力強く響いていた。星川工業株式会社のインサイダー取引事件から1年。佐藤悠斗と父・健一の共謀は、金融業界に衝撃を与えたが、兜町の喧騒はそんな父子の悲劇を飲み込み、過去のものとした。トレーダーたちの足音、株価チャートの無情な上下、投資家の欲望と理性のせめぎ合い——市場は、変わらずその姿を保っていた。
悠斗は、もはや兜町にはいなかった。懲役2年、執行猶予3年の有罪判決、東証からの解雇、家族との断絶。25歳の彼が失ったものは、あまりに大きかった。東京都郊外の小さなアパートで、悠斗は細々と生きていた。コンビニの夜勤アルバイトで生計を立て、昼間は部屋に閉じこもり、無料のオンラインチュートリアルでプログラミングを学び直す日々。金融業界への復帰は絶望的だったが、ITの片隅で再起の足がかりを探すしかなかった。履歴書の「前科」の欄は、彼の未来を重く縛っていたが、どこかで「やり直したい」という小さな火が灯り始めていた。
アパートの窓から見えるのは、灰色のコンクリートと電線。兜町の眩しいビルは視界に入らない。だが、悠斗の心には、あの日の光景が焼き付いていた。星川工業の機密ファイルを開いた夜、健一に「株、買ってみたら」と囁いた瞬間、800万円の「取り分」を受け取った誘惑、法廷で健一と責任をなすり合った瞬間。すべては、父子で織りなした欲望の共謀から始まった。「あの時、情報を漏らさなければ…父さんが欲を出さなければ…」 後悔は毎夜彼を苛んだ。だが、市場は後悔を許さない。悠斗と健一の物語は、警告として、市場の片隅に刻まれた。
健一のその後も、共謀の傷を色濃く映していた。追徴金1600万円と罰金200万円で貯金を失った彼は、株取引をやめ、近所の工場で警備員として働くようになった。法廷では「悠斗が持ち込んだ」と責任を転嫁したが、内心では自分の欲望が共謀を加速させたことを認めていた。「俺は…あの情報を欲しがった。悠斗と組めば、市場を出し抜けると踏んだ。」 だが、その過ちは美佐子との関係を破壊し、夫婦の会話は途絶えた。健一は夜な夜な、スマホで株価チャートを眺め、市場への未練を捨てきれなかった。「もう一度、チャンスがあれば…」 共犯の罪悪感と欲望が、彼を静かに蝕んだ。
家族の崩壊は、悠斗と健一の心に最も深い傷を残した。美佐子は事件から半年後、手紙をよこした。「悠斗、健一さん、あなたたち二人で…なぜこんなことに。」 淡々とした文字に、母の失望と疲弊が滲んでいた。美佐子は健一の投資失敗を耐えてきたが、息子との共謀は彼女の心を折った。「お父さんだけなら、まだ耐えられた。でも、あなたまで…」 以来、彼女は悠斗とも健一とも距離を置き、実家は空虚な殻と化した。悠斗は母の許しを乞う手紙を書いたが、返事はなかった。健一とは、法廷以来一言も交わしていない。共犯の絆は、互いを縛る呪いとなり、父子を永遠に引き裂いた。
東証は、事件を教訓に変えた。情報管理システムは一新され、機密ファイルのアクセスは二重認証とリアルタイム監視で厳格化。社員の取引履歴は外部機関による定期監査の対象となり、倫理研修が全社員に義務付けられた。社長は記者会見で「市場の信頼は絶対に守る」と宣言したが、投資家の声は冷ややかだった。「東証の監視なんてザル」「インサイダーはなくならない」との投稿がSNSに溢れ、海外投資家の信頼回復には時間がかかった。星川工業の株価は新事業で安定したが、市場全体の透明性への疑問は、しばらく尾を引いた。
悠斗と健一の共謀は、金融業界の若手社員たちに静かな戒めとして響いた。東証のシステム管理部門では、悠斗のデスクが空になった後、彼の名前はタブーとなった。だが、研修では「佐藤事件」が匿名で取り上げられ、「情報の重さ」と「共謀の代償」が繰り返し教え込まれた。田中は別の部署に異動し、悠斗を「才能があったのに、もったいない」と語るだけだった。市場の「番人」であるはずの東証で、父子がルールを破った事実は、誰もが忘れたい過去だった。
ある夜、悠斗はネットで古い経済記事を見つけた。「東証社員と父のインサイダー共謀、市場に衝撃」。名前は伏せられていたが、詳細は彼の傷を抉った。「父子の欲望が、市場を揺らし、家族を壊し、未来を奪った。」 悠斗はパソコンを閉じ、窓を開けた。秋風が埃っぽい部屋を払い、彼は机の引き出しから古いUSBメモリを取り出した。東証での最初のプロジェクト、市場監視システムのプロトタイプ。バグだらけだったが、田中と笑いながら作った思い出が詰まっていた。「あの頃、俺は市場を信じてた…共謀なんて、考えもしなかった。」
彼はメモリを手に、近くの公園へ向かった。ベンチに座り、通り過ぎる人々を眺めた。子どもが笑い、老夫婦が手を繋ぎ、若者がスマホをいじる。誰も、悠斗の過去を知らない。彼はメモリをポケットにしまい、呟いた。「もう一度、やり直すしかない。」 プログラミングを学び、いつか小さなIT企業で働く夢を抱いた。市場から追放された彼に、華やかな未来はないかもしれない。だが、崩れ去った人生の破片を拾い、前に進むことだけが、共謀の教訓を活かす道だった。
健一もまた、工場での夜勤の合間に、過去を振り返っていた。星川工業のチャートをスマホで開き、TOBの記憶に目を細めた。「あの時、欲を抑えていれば…悠斗を止めていれば…」 だが、彼はスクリーンを閉じ、警備室の椅子に沈んだ。市場への未練は、共犯の罪とともに、彼の心に重く残った。
兜町では、今日も市場が動いている。株価チャートは無情に上下し、投資家の欲望が新たな物語を紡ぐ。悠斗と健一の共謀は、市場の長い歴史の中で、ほんの一瞬の波紋に過ぎなかった。だが、その波紋は、誰かの心に教訓を刻んだ。情報は力であり、責任だ。市場のルールを破れば、裁きは必ず訪れる。共謀の誘惑は、家族を、信頼を、未来を壊す。
あなたなら、どうするだろうか? 市場の光に誘われ、禁断の囁きに耳を傾けるか。共犯の甘い果実に手を伸ばすか。それとも、ルールを守り、信頼を選ぶか。悠斗と健一の物語は、静かに問いかける。兜町の光は、変わらず輝き続ける。だが、その光が照らすのは、希望か、闇か。それは、あなた次第だ。
終わり






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