第5章:裁きの舞台
2025年5月、東京の空は春の陽気とは裏腹に、重い雲に覆われていた。東京地方裁判所の石造りの建物は、兜町の喧騒から離れた静かな一角に佇み、冷たく厳粛な空気を漂わせていた。法廷101号室で、佐藤悠斗は被告席に立っていた。25歳、東京証券取引所(東証)のシステム管理部門で将来を嘱望された彼は、今、市場の信頼を裏切った罪に問われていた。星川工業株式会社の未公開情報——株式公開買い付け(TOB)の機密を父親の健一に漏らし、1600万円の利益を生む取引を共謀した金融商品取引法違反(情報伝達およびインサイダー取引)。悠斗の背中は、罪の重さに縮こまり、スーツの肩は汗で湿っていた。
法廷は息を呑むような緊張感に包まれていた。傍聴席には、経済紙の記者、東証の元同僚、金融庁の職員、そして母・美佐子の姿があった。美佐子はハンカチを握り潰し、涙を堪えていた。健一は隣の法廷で同時進行の裁判に臨み、父子は互いに対面することなく裁かれていた。裁判長の荘厳な声が響く。「被告人、佐藤悠斗。起訴状を認めるか?」 悠斗はうつむいたまま、震える声で答えた。「はい…認めます。」 弁護人の隣に立つ彼は、かつての自信に満ちた若者とは別人のようだった。
検察側は、父子の共謀を冷徹に暴いた。「被告・佐藤悠斗は、東証のシステム管理者として機密情報にアクセスする権限を持ち、星川工業のTOB情報を意図的に父親・健一に漏洩。両者は共謀し、2000万円の株購入で1600万円の利益を得た。市場の公平性を損ない、投資家の信頼を裏切った行為は極めて重大である。」 検察官は、悠斗の端末ログ、健一の取引履歴、父子のLINEを証拠として提出。スクリーンに映し出された「父さん、星川工業の株、買ってみたらどうかな」「お前の取り分、800万だ」のメッセージは、共謀の動かぬ証拠だった。傍聴席の記者たちが一斉にペンを走らせ、美佐子の肩が震えた。
弁護側は反論を試みた。「被告は直接の利益を得ておらず、軽率な会話が引き起こした過ちです。25歳の若さゆえの判断ミスであり、反省も深い。執行猶予を求める。」 だが、検察官は容赦なかった。「被告は市場の『番人』として情報管理の責任を負っていた。父親と利益分配を約束した共謀は、故意の犯罪だ。年齢や反省は罪を軽減しない。」 法廷の空気は、鉛のように重くなった。
健一の法廷でも、検察の追及は厳しかった。「被告・佐藤健一は、息子の情報が未公開であると知りながら、2000万円を投じ、1600万円の利益を得た。元銀行支店長としての知識を持ち、インサイダー取引のリスクを認識していたはずだ。」 健一は被告席で目を伏せ、声を絞り出した。「はい…悠斗の話が本物だと、わかってました。でも、俺も…欲に負けた。けど、全部俺のアイデアじゃねえ! 悠斗が持ち込んできたんだ!」 自己保身と悠斗への責任転嫁が混じる弁明に、検察は冷ややかに反論した。「共謀の事実は、LINEのやりとりで明らか。あなたも積極的に関与し、利益を息子と分けた。責任は等しく重い。」 健一の弁護人は「利益は全額返還する用意がある」と訴えたが、検察は追徴金1600万円と罰金を求めた。
証人として、東証のシステム管理部門の部長が呼ばれた。「佐藤は優秀な社員だったが、機密ファイルへの不自然なアクセスが発覚し、疑念を抱いた」と証言。傍聴席の田中は、複雑な表情で耳を傾けた。彼は悠斗の異変に気づいていたが、インサイダー取引の共謀にまで及ぶとは想像もしていなかった。「佐藤…お前、なんでだよ…」 田中の呟きは、悠斗の耳には届かなかった。
検察は悠斗の動機を追及した。「被告は、なぜ父親と共謀したのか? 動機を明確に述べなさい。」 悠斗は唇を噛み、絞り出すように答えた。「俺…父さんに喜んでほしかったんです。いつも株で失敗して、母さんに責められて…。あの時、軽い気持ちで話したら、父さんが…一緒に儲けようって…」 言葉は嗚咽に変わった。美佐子のハンカチが濡れ、記者たちがメモを取った。裁判長の目は冷ややかだった。「共謀して市場の信頼を損ねた責任は、動機の如何を問わず重大だ。」
健一の動機も問われた。「被告は、なぜ息子の情報に乗ったのか?」 健一はうなだれ、呟いた。「俺は…チャンスだと思った。悠斗が東証にいるなら、こんな情報、滅多にねえって。欲に目が眩んだ…でも、俺一人じゃなかった。悠斗も欲しかったはずだ!」 父子の責任のなすり合いは、法廷に虚しい響きを残した。
5月15日、判決の日。法廷は静寂に包まれた。裁判長が判決文を読み上げる。「被告、佐藤悠斗。金融商品取引法違反の罪により、懲役2年、執行猶予3年を言い渡す。」 悠斗の肩が震えた。執行猶予とはいえ、有罪の烙印は彼の未来を閉ざした。「東証の社員として市場の信頼を支える立場にあった被告が、父親と共謀して情報を悪用した行為は、投資家の公平性を著しく損なう。反省を深め、二度と過ちを繰り返さぬよう。」
健一にも同日、判決が下った。懲役2年、執行猶予3年、追徴金1600万円、罰金200万円。健一は法廷で黙り込み、美佐子の前で一言も発せなかった。父子の共謀は、互いを縛る鎖となり、家族を断ち切った。
法廷を後にする悠斗は、記者のフラッシュと好奇の視線に晒された。「東証社員と父のインサイダー共謀、市場に衝撃」との見出しが新聞を飾った。東証は記者会見で「再発防止策を徹底する」と発表したが、投資家の信頼は揺らいだ。SNSには、「東証が腐ってる」「インサイダーは日常だろ」との声が溢れた。悠斗と健一の共犯は、兜町に暗い影を落とした。
アパートに戻った悠斗は、電気もつけず、兜町のビルを窓から見た。かつての希望の光は、裁きの刃にしか見えなかった。健一は自宅で美佐子に背を向け、沈黙した。父子の共謀は、市場と家族を壊し、彼らの心に深い傷を残した。




コメント