第6章:崩れゆくもの
2025年6月、東京・兜町の喧騒は変わらず続いていた。東京証券取引所(東証)のガラス張りのビルは、初夏の陽光を浴びて眩しく輝き、トレーダーたちの足音が市場の鼓動と響き合っていた。だが、佐藤悠斗にとって、その光は届かない遠い世界のものだった。星川工業株式会社のインサイダー取引事件から半年。懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受け、東証を解雇された25歳の彼は、希望も誇りも失い、虚ろな日々を過ごしていた。父・健一との共謀——星川工業の未公開情報を漏らし、1600万円の利益を分け合った罪は、家族の絆、母・美佐子の信頼、職場の仲間たちとの繋がりをすべて崩壊させた。
悠斗のアパートは、薄暗いワンルームのまま時間が止まっていた。カーテンは閉じられ、床には空のビール缶とコンビニ弁当の容器が散乱。テレビでは経済ニュースが流れ、「星川工業、TOB後の新事業で株価堅調」と報じていた。悠斗はリモコンを投げつけ、画面を消した。あの情報がなければ、健一は2000万円を投じず、悠斗は800万円を受け取らず、SESCの追及もなかった。だが、共謀の甘い果実は毒に変わり、彼の人生を奪った。
東証からの解雇通知は、判決の翌日に届いた。「金融商品取引法違反による信頼毀損」を理由に即日解除。履歴書に「インサイダー取引の前科」が刻まれた悠斗に、金融業界の門は閉ざされた。IT企業への応募も「コンプライアンスに問題あり」で拒否され、コンビニの夜勤アルバイトで糊口を凌ぐ日々。かつての同期、田中のLINEは「佐藤、なんでだよ…」で途絶え、他の同僚からの連絡もなかった。オフィスでの笑顔、飲み会での冗談は、幻のように消えた。
健一もまた、事件の代償を払っていた。追徴金1600万円と罰金200万円で貯金を失い、株取引をやめた彼は、近所の工場で警備員として働くようになった。法廷では「悠斗が持ち込んだ」と責任を転嫁したが、内心では自分の欲望が共謀を加速させたことを認めていた。「俺も…あの情報を欲しがった。市場を出し抜けると思った。」 だが、その自覚は美佐子との関係を修復せず、夫婦の会話は途絶えた。健一は夜な夜な、過去の株価チャートを眺め、市場への未練を捨てきれなかった。「もう一度、チャンスがあれば…」 共犯の罪悪感と欲望が、彼の心でせめぎ合った。
家族の崩壊は、悠斗の心を最も深く傷つけた。美佐子は判決後、一度だけ電話をかけてきた。「悠斗、あなたと健一さんが…どうしてこんなことに…」 涙混じりの声に、悠斗は答えられなかった。美佐子は健一の投資失敗を許してきたが、息子との共謀は耐え難い裏切りだった。「お父さんだけなら、まだ…でも、あなたまで…」 以来、彼女からの連絡はなく、悠斗は実家に帰れなかった。健一とは、法廷での責任のなすり合い以来、一切の連絡が途絶えた。「お前が情報を持ってきた」「お前が欲をかいた」——共犯の絆は、互いを縛る呪いとなった。
悠斗の心は、罪悪感と自己嫌悪に支配されていた。悪夢は毎夜のように襲った。法廷での裁判長の声、記者のフラッシュ、田中の失望した顔。そして、健一が叫ぶ声。「お前と組んだのが間違いだった!」 目を覚ますと、汗でシーツが濡れていた。ビールを飲んでも、心の穴は埋まらなかった。ある夜、健一の古い株価チャートを思い出した。リーマンショックの赤字の記録。「父さんも、俺も…市場の誘惑に負けた。」 その気づきは、彼を絶望に突き落とした。
社会からの孤立も、悠斗を追い詰めた。SNSでは、事件の記事が「東証の裏切り者」「父子の共謀」と拡散され、匿名アカウントからの罵倒が殺到。「インサイダー野郎、市場を汚した」「親子で牢屋行け」 悠斗はアカウントを削除したが、ネットの記憶は消えない。コンビニの客の視線すら、敵意に感じた。兜町を歩くことはできなかった。あのビルの光は、罪の刃にしか見えなかった。
東証と市場への影響は、深刻だった。事件後、東証は情報管理を一新。機密ファイルのアクセスは二重認証で厳格化され、社員の取引履歴は外部監査の対象に。社長は記者会見で「信頼回復に全力を尽くす」と頭を下げたが、投資家の反応は冷ややかだった。「東証自体がインサイダーの温床」「監視がザル」との声がSNSに溢れ、海外投資家の信用低下が続いた。星川工業の株価は安定したが、市場の透明性への疑問は尾を引いた。
悠斗は生きる意味を見失いかけていた。大学の友人からの「大変なことになってるみたいだけど…」というメッセージにも、返信する気力はなかった。友人の成功をSNSで見るたび、自分の転落が際立った。「あの時、電話をかけなければ…父さんが欲を出さなければ…」 後悔は頭を巡った。だが、市場は後悔を知らない。株価チャートは無情に動き、悠斗と健一の物語を過去に押しやった。
6月中旬、悠斗は実家を訪れた。美佐子は無言でドアを開け、健一はリビングでテレビを眺めていた。父子の目は合わず、沈黙が部屋を満たした。美佐子が「お茶でも?」と呟いたが、声はかすれた。悠斗は頭を下げ、絞り出した。「母さん、父さん…本当に、ごめん。俺たちのせいで…」 健一は立ち上がり、声を荒げた。「今さら謝って何だ! お前と組んだせいで、俺の人生は終わった! あの800万、欲に目が眩んだ俺も悪い…だが、お前が始めなけりゃ…!」 美佐子が「やめて!」と叫んだが、健一は止まらなかった。「出てけ、悠斗。二度と来るな。」
悠斗は実家を後にし、駅までの道を歩いた。夕暮れの空は赤く、兜町のビルが遠くに浮かんでいた。彼は立ち止まり、ビルを見た。かつて夢を見ていた場所。市場を支え、未来を切り開く自分を想像していた。だが、共謀の欲望はすべてを壊した。仕事、家族、信頼。手には何もない。
アパートに戻り、悠斗は引き出しから古いUSBメモリを見つけた。東証での最初のプロジェクト、市場監視システムのプロトタイプ。田中と笑いながら作った思い出が詰まっていた。彼はメモリを握り、涙した。「あの頃に戻れたら…」 だが、過去は変えられない。彼はメモリをゴミ箱に投げ、電気を消した。
兜町の夜は、ネオンで輝き続ける。だが、悠斗と健一の心は闇に閉ざされた。崩れゆくものは、彼らの人生そのものだった。市場は、父子の悲劇を意に介さず、冷酷に動き続けた。
コメント