「原爆の悲惨さを伝える」ということと、「そこから何を考えるべきかを決めてしまう」ということは、似ているようで全然違うと思います。
子どもが原爆の話を聞いて、
「こんな目に遭わないためには、日本も原爆を持たないといけないのでは」
と感じた。
語り部の方が、それを聞いて「ショックだった」と話していた。
もちろん、その言葉に衝撃を受ける気持ちは分かります。自分が長年伝えてきたことと、まったく違う方向に受け取られたように感じたのかもしれません。
でも、私はその子どもの感想を「間違い」として扱ってはいけないと思うのです。
むしろ、かなり自然な感想ではないでしょうか。
悲惨な現実を見たからこそ、考え方が分かれる
原爆資料館で、焼け焦げた衣服を見る。
一瞬で失われた命について知る。
何の罪もない人たちが、突然、想像を絶する苦しみを受けたことを知る。
そこで、
「二度とこんなことを起こしてはいけない」
と思う人もいるでしょう。
「核兵器そのものをなくさなければいけない」
と思う人もいる。
一方で、
「こんな兵器を持っている国に攻撃されたらどうするのか」
「日本も核を持っていれば、攻撃を思いとどまらせられるのではないか」
と考える子どもがいても、私は不思議だとは思いません。
むしろ、そこまで考えたこと自体が大事なのではないでしょうか。
戦争や原爆について学ぶ目的は、全員を同じ結論に導くことではないはずです。
「悲惨だった」から先をどう考えるか
ここが一番難しいところです。
原爆がどれほど悲惨だったのかを知ったとしても、そこから導き出される政治的な結論は一つではありません。
「だから核兵器を廃絶すべきだ」
という人もいれば、
「だからこそ核抑止が必要だ」
という人もいる。
「日本は核を持つべきではないが、アメリカの核抑止力には頼るべきだ」
という考え方もある。
「核兵器をなくすべきだが、現実には簡単ではない」
という人もいる。
どれが正解なのか。
少なくとも、子どもが感想を述べた段階で大人が、
「それは間違った考えです」
と蓋をしてしまうのは違う気がします。
むしろ、
「なぜそう思ったの?」
と聞けばいい。
「原爆の悲惨さを知って、それでも核兵器が必要だと思ったのはなぜ?」
そこから議論が始まる。
それこそが平和教育なのではないでしょうか。
語り部の役割は「答え」を渡すことではない
語り部の方々が、自分の体験を伝えてくださることには本当に大きな意味があると思います。
資料や教科書では伝わらないものがある。
実際にその時代を生きた人の言葉だからこそ、子どもの心に残る。
だからこそ、その先の判断まで語り部が決めてしまう必要はないと思うのです。
「私はこう考える」
まではいい。
でも、
「あなたもこう考えるべきだ」
になった瞬間、少し違うものになってしまう。
悲惨な体験を聞いた人が、何を感じ、何を考え、どんな結論にたどり着くのか。
そこまで自由であっていい。
いや、自由でなければならないと思います。
「ショックだった」という感想も、実は大切なのかもしれない
私は、その子どもの一言を聞いて「ショックだった」という語り部の反応そのものを責めるつもりもありません。
長い年月をかけて平和を訴えてきた人なら、自分の思いとは正反対の感想を目の前で聞けば、ショックを受けるのは当然です。
でも、その「ショック」を理由に、その子どもの考えを否定してしまったら、それは教育ではなくなってしまう。
原爆の悲惨さを伝える。
そして、子どもたちがそれを聞いて考える。
その結果、
「核兵器は絶対になくすべきだ」
という結論になってもいい。
「核抑止について考えた」
でもいい。
「よく分からない」
でもいい。
「怖かった」
でもいい。
そして、
「だから日本も核を持ったほうがいいのでは」
という感想が出てきてもいい。
その意見に大人が反論することも、もちろんいい。
でも、最初から「それは間違い」として封じるのではなく、
「なぜそう考えたのか」
を一緒に考える。
私はそのほうが、ずっと平和について真剣に考えている姿勢だと思います。
原爆の悲惨さから何を学ぶのか。
その答えまで一つにしてしまったら、結局、「自分で考えろ」と言いながら、考える方向まで決めてしまうことになる。
戦争を知らない世代に必要なのは、決められた答えを覚えることではなく、悲惨な歴史を知ったうえで、それぞれが自分の頭で考えることなのだと思います。
そして、ときには大人が聞きたくない答えが返ってくる。
それも含めて、子どもが自分で考えたということなのではないでしょうか。
