退職届を出したのは、現場をまとめていた一人の社員だった。
社長は引き止めたし、給料を少し上げるとも言った。ただ本人の中では、たぶんもう何か月も前に答えが出ていたんだと思う。その人しか持っていない資格があって、その人にしか顔の利かない取引先があって、引き継げる若手はいない。受注を絞り、足りない分を外注に回し、その外注費がじわじわ利益を食って、半年後に会社は破産を申し立てた。
これは架空の話だ。でも細部を少し入れ替えれば、いまの倒産記録の中にいくらでも転がっている話でもある。
社員が一人辞めた、それだけで会社が潰れる。少し前なら「よほど経営が傾いていたんだろう」で片付けていた気がするし、実際そういうケースも多いはずだ。ところが帝国データバンクの集計では、従業員や経営幹部の退職が引き金になった倒産が2025年に124件と、集計できる2013年以降で初めて100件を超えた。2026年も7月までで83件、前年を上回るペースで積み上がっている。
人手不足だから仕方ない、賃上げできない中小企業が悪い。そう言ってしまえば話は早いし、半分くらいは当たっているのかもしれない。それでもどこか引っかかるのは、会社というものが社員の一人二人で潰れるほど脆かったのか、という点だ。社員が辞めたから会社が潰れたのか、潰れかけていたから社員が辞めたのか。この順番の違いは、思っている以上に大きいと見ている。
退職倒産は本当に増えているのか
まず数字を並べておく。調査会社によって定義も集計期間も違うので、数字が微妙に食い違うのはそのせいだ。

業種で見ると、2025年は建設業が37件で全体の約3割を占め、サービス業が29件で続く。サービス業の中身は老人福祉施設、ソフトウェア開発、美容室といったあたりで、製造業も21件と初めて20件を超えた。2026年1〜7月はサービス業22件、建設業20件、運輸・通信業12件。資格や経験を持った人が抜けると、その瞬間に仕事が回らなくなる業種ばかりだ。
帝国データバンクが挙げている事例を読むと、潰れ方にはかなり共通した型がある。退職で受注をこなす力が落ち、穴を外注で埋め、外注費がかさんで資金繰りが詰まる。東京の不動産仲介会社では、業績悪化で給与を引き下げたのをきっかけに退職が続き、そのまま事業が続けられなくなった例もあった。給料を下げれば人が辞め、人が辞めれば売上が落ちる。書いてしまえば当たり前すぎるループなんだけど、中にいるとこれが止められない。
会社が社員を選ぶ時代は、もう終わったのか
昔は会社を辞めること自体が大きな決断だった。辞めた人間は「根性がない」と言われ、次の会社でも前職をどう説明するかに苦労した。いまは転職サイトを開けば求人が並び、エージェントから向こうの方が連絡してくる。帝国データバンクの2025年10月の調査では、正社員が足りないと感じている企業が51.6%。2社に1社が人を欲しがっている状況で、辞めるハードルが下がらないはずがない。
ただ、全員が自由に会社を選べるようになったわけではない。ここは雑に語られがちなところで、正直ちょっと違和感がある。50代の未経験職種への転職はいまも厳しいし、地方で選べる職場の数は都市部とまるで違う。力関係が逆転したのは、施工管理、介護、エンジニア、ドライバーのように「その人がいないと仕事が成立しない」資格や経験を持つ層に限った話だ。
そして厄介なのは、会社にとって一番いてほしい人ほど、まさにその層に入っているということ。辞められる人から先に辞めていく。残るのは、辞めたくても辞められない人と、まだ辞める決断がつかない人になる。この偏りが、退職倒産の怖さの根っこにあるように思う。
「頼りになる社員」から先に辞めていく
仕事ができる人のところには、仕事が集まる。どこの職場でも起きていることだ。急ぎの案件も、面倒な客も、新人の教育も、気がつけば全部その人に回っている。経営者から見れば「あいつがいるから安心だ」という評価で、本人からすれば、できる分だけ罰ゲームが増えていく感覚に近い。
責任は重くなるのに、肩書きも給料もほとんど変わらない。年に一度の面談で「期待してるよ」と言われ、忘年会で社長に肩を叩かれる。社長の側には悪気がまったくないことも多くて、むしろ本気で感謝しているつもりでいる。それが一番怖いところかもしれない。
社員が本当に欲しいのは、飲み会でも感謝状でもなく、生活できる給料と、無理のない仕事量だったりする。そんな当たり前のことが、経営者と社員のあいだで何年もすれ違ったまま放置される。善意同士がすれ違っているから、どちらも自分が悪いとは思っていない。退職届が出た日に初めて、社長は「何も聞いていなかった」と驚くことになる。
「給料を上げればいい」は正論。でも、その金はどこから出る?
ここまで読んで「だったら給料を上げろよ」と思った人は多いと思う。それは完全に正論で、筆者もそう思う。ただ、ここから先が一番出口の見えないところだ。
東京商工リサーチの2025年度の集計で、人手不足関連倒産442件のうち最も多かったのは「従業員退職」ではなく「人件費高騰」の195件だった。前年度から77.2%も増えている。人を引き止めるために賃上げをして、その賃上げで資金繰りが持たなくなった会社がこれだけある、ということだ。上げなければ辞められ、上げれば体力が削られる。どちらに転んでも行き先は同じ、という会社が一定数あるのは間違いないと思う。

大企業なら、積み上がった利益や価格決定力を背景に賃上げを飲み込める。中小企業の多くはそうはいかない。経済産業省が2026年6月に公表した調査では、中小企業の価格転嫁率は54.2%で、労務費に限ると50.0%だった。人件費が上がった分の半分は、自社でかぶっている計算になる。
利益率3%の会社にとって、5%の賃上げは「ちょっと苦しい」では済まない。しかも5%上げたところで、大手の初任給や賃上げ率と比べれば見劣りする。社員から見れば「上がったけど足りない」で、社長から見れば「これ以上は無理」。両方とも本当のことを言っているのが、この問題のやりきれなさだと思う。
中小企業の社長が全員搾取しているわけでもない。自分の役員報酬を削って社員の給料に回している経営者も、たぶん少なくない。経営者も苦しい、社員も苦しい。じゃあ、その利益は一体どこで消えているのか。
一つは価格決定力の弱さで、元請けから「来期もこの単価で」と言われれば断れない取引構造がある。多重下請けの階層を一段下りるたびに、中間で少しずつ抜かれていく。生産性の問題もあるだろうし、十年前と同じやり方で仕事を回している会社が多いのも事実だ。そしてもう一つ、書くのが少し気が重いんだけど、安い商品やサービスを当然のように求めている私たち消費者も、この構造の外にいるわけではない。運送料無料、24時間営業、介護保険の範囲で手厚いケア。その安さのどこかに、辞めていった誰かの給料が埋まっている。
一人辞めても回る会社と、回らない会社の差
賃上げに限界があるなら、給料以外で何ができるのか。ここは「福利厚生を充実させましょう」みたいなきれいな話にしたくない。一番効くのは、たぶん地味な仕組みの話だ。
⑤は経営者にとって一番飲み込みにくいはずだ。売上を落とすのは負けだという感覚が、日本の中小企業にはかなり根強い。でも退職倒産の事例を読んでいると、人が減ったのに受注を減らさず、無理に外注で回して力尽きたケースが目につく。縮むことを選べた会社と選べなかった会社の差が、最後に生き残れるかどうかを分けているようにも見える。断定はできないけど。
投資家は何を見るべきか——決算書に載らない人材流出リスク
退職倒産の大半は非上場の中小企業で起きている。だから株を持っている側には関係ない、と思うのは少し早い。上場企業でも、技術者数十人で回している小型株や、特定の営業担当が大口顧客を握っている会社には、まったく同じ構造のリスクがある。厄介なのは、それが損益計算書の利益にはしばらく現れないことだ。人が辞めても、最初の数四半期は残った人の残業でなんとか数字が作れてしまう。

| 見る数字 | どこで見るか | 危ないサイン |
|---|---|---|
| 従業員数の推移 | 有価証券報告書「従業員の状況」 | 売上は伸びているのに人が減っている |
| 平均勤続年数 | 同上 | 数年で急に短くなっている |
| 平均年間給与 | 同上 | 同業より明らかに低い、伸びが物価に負けている |
| 外注費・業務委託費 | 売上原価明細、販管費の内訳 | 人件費が横ばいなのに外注費だけ膨らむ |
| 採用費・求人広告費 | 決算説明資料(開示している会社のみ) | 採用コストが毎年増えているのに人数が増えない |
| 一人当たり売上高 | 売上高 ÷ 従業員数で自分で計算 | 人を増やしても伸びない、または急に跳ねた(残った人が無理をしている可能性) |
| 特定人物への依存 | 有価証券報告書「事業等のリスク」 | 代表者や特定の技術者への依存を自ら書いている |
決算説明会で「人的資本経営」という言葉を何回使ったかより、従業員数と外注費の推移を3期分並べた方が、よほど会社の本音が見える。地味な作業だし、株価チャートを眺めているより圧倒的につまらない。でも人が抜けていく会社の数字は、損益計算書より先に、こういう脇の数字から崩れ始めることが多い気がしている。
社員が会社を見限るとき、会社はたぶん、もう弱っていた
冒頭の問いに戻る。社員が辞めたから会社が潰れたのか、潰れかけていたから社員が辞めたのか。
事例をいくつも読んでみて思うのは、退職は引き金ではあっても、根本の原因ではないケースが多いということだ。価格を上げられない取引構造、一人に寄りかかった業務、何年も変わらない給与体系。長い時間をかけて積み上がった弱さが、最後に「退職届」という目に見える形で表に出てきただけなのかもしれない。
そう考えると、これは中小企業だけの話では終わらない。人をコストとしてしか見ない会社は、いずれ社員からだけでなく、市場からも見限られる時代になっていくんじゃないか。決算書の利益がきれいでも、その利益が誰の無理の上に乗っているのかを、投資家が問い始めている。少なくとも私は、次に銘柄を選ぶとき、従業員数の欄を前より長く眺めることになりそうだ。
